石田三成の実像201 「関ヶ原合戦祭り」報告4 ゆるキャラ「茶々姫」も参陣

画像

 写真は笹尾山に参陣していた(?)「茶々姫」を撮ったものです。湖北町で生まれたキャラクターマスコットであり、むろん、浅井長政とお市の長女お茶々(後の淀殿)がモデルですが、彦根で行われている「ゆるキャラ祭り」には参加していなかったようです。彦根はこの祭りで大賑わいであり、テレビや新聞でも大きく取り上げられていました。
 茶々姫は「小谷城ふるさと祭り」に参加していましたが、それに引き続いて「関ヶ原合戦祭り」に姿を現しました。ゲームの世界では、関ヶ原の戦いに北政所が割り込んできて、家康と三成を止めるものもありますが、淀殿が現れるというパージョンもあるのかどうかは私は知りません。ゲームでは出雲の阿国やお市も戦いに加わっているぐらいですから、勇ましいと言われている彼女が戦っても不思議はありません。
 しかし、現実には淀殿が戦いに加わることはありませんでしたし、息子の秀頼も出陣させませんでした。もっとも、三成が西軍の総大将の毛利輝元の出陣を要請していたのは確かだとしても、8才の秀頼の出陣を促していたかどうか明らかではありません。淀殿は挙兵した三成たち西軍に軍資金を出さなかったぐらいですから、まして、秀頼の出陣を認めることはありませんし、淀殿は家臣同士の争いだとして秀頼を巻き込みたくなかったのでしょう。淀殿は関ヶ原の戦いの時点においてはむしろ、三成より家康に頼っていたことは、妹のお江が秀忠に嫁いでいたことからも、上杉攻めに向かう家康に軍資金を与えていたことからもうかがえます。少なくとも、どちらが勝ったにしても、秀頼は安泰だと考えていた可能性がありますし、そう信じたかったのが彼女の本意ではなかったでしょうか。
 しかし、関ヶ原の戦いの後、反対派を一掃した家康は独自の政権を打ち立てていき、幕府を開き、武家の棟梁たることを天下に示します。豊臣家の失墜を淀殿は目の当たりにすることになり、家康に裏切られたという思いを強くしていきます。
 さきほど勇ましい淀殿と書きましたが、プライドの高い女性であったのは事実としても、子離れができず秀頼を支配していたというのは、江戸時代に作られたイメージかもしれません。秀頼もそれなりに立派な大名に育っていたからこそ、家康は二条城で秀頼と対面して、豊臣家取りつぶしを真剣に考えるようになったのです。もっとも、秀頼は大坂夏の陣の際、一度も出陣しませんでしたから、か弱いイメージで見られがちです。
 ゆるキャラ「茶々姫」はいかにも可愛い姿で、生涯に三度の落城を経験した淀殿の悲惨な人生とは違い過ぎますが、お茶々にもっと平凡ながらも幸せな人生を歩んでほしかったという人々の願いがこもっているのかもしれません。
 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック