石田三成の実像212 東軍岡山本陣跡 大回りして関ヶ原に移動せざるをえなかった西軍

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 写真は大垣市赤坂にある東軍岡山本陣跡を撮ったものです。東軍が関ヶ原の前日まで陣を置いていたところです。関ヶ原合戦祭りの初日の午後、オンライン三成会の人々と大垣にある関ヶ原関連遺跡(杭瀬川の戦いなど)をいろいろと訪ねました。私自身は岡山本陣後跡を訪れたのは二度目です。家康の幟もなく、全体的に前よりも荒れている感じがしました。この地、岡山は関ヶ原の戦いで家康が勝ったため、後に「お勝山」と呼ばれるようになりました。残念ながら木々に阻まれて、大垣城は見えませんでした。
 石田三成が大垣城に入ったのが8月10日、東軍が赤坂に陣を置いたのが8月24日であり、それから双方はにらみ合いを3週間近く続けました。双方の距離はわずか四キロあまりの距離でした。三成は西軍の諸将に関ヶ原に集結するように促し、それに応じて9月2日に大谷吉継が山中村に着陣し、3日に宇喜多秀家が大垣城に入城します。7日には、毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家・吉川広家・長宗我部盛親たちは南宮山に陣取りました。
 今回、初めて知ったことですが、東軍は家康の到着を待つ間、西軍から奪い取った長松城までの道を整備して軍事道路として拡張しました。それが今日の県道214号線ですが、長松城まで落ちてしまったことによって、西軍が大垣城を出て関ヶ原に移動する時、大回りせざるをえなかったというのです。西軍は迂回して南宮山の南の縁を通り、関ヶ原に向かいました。
 長松城は西軍の武光忠棟が城主ですが、岡山に東軍が布陣したのに恐れをなして逃げ、代わりに一柳直盛が押さえました。この長松城跡にも、この後で連れて行ってもらいましたが、今はそのあたりは小学校になっており、その一角に長松城跡の大きな碑が建っています。
 家康が岡山の本陣に、井伊直政や本多忠勝の案内で到着したのが14日の正午頃でした。東軍の先発隊である福島正則たちが清洲城に到着してちょうど一ヶ月経った時のことであり、家康の到着を心待ちにしていた東軍が喜んだことのは言うまでもありません。
 このため、西軍の間には家康の着陣に動揺が広がり、それを鎮める必要から島左近が杭瀬川の戦いを仕掛けました。
 

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