石田三成の実像213 7年ぶりに訪ねた大谷吉継の陣鐘・7年前の石田善能寺訪問

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 写真は岐阜県大垣市赤坂にある安楽寺の大谷吉継の陣鐘を撮ったものです。岡山にある寺であり、この鐘は関ヶ原の戦いに勝った家康から寺に戦利品として寄進されたものです。大谷吉継隊は実際、この鐘をたたいて味方に合図を送ったり、味方の士気を鼓舞したりしていました。この鐘は1419年に播州で作られたと記されており、かなりの年代物です。
 実際、お寺がこの鐘を撞いているのかどうかは私は知りませんが、撞ける状態に置かれているので、使われているのではないかと思われます。陣鐘としては大きなものであり、寺の鐘としては若干小さいという印象を受けるものの、寺にあって違和感はありません。
 この寺を訪ねたのも岡山陣跡と同様二度目ですが、前に来たのは7年前であり、やはり岐阜に住んでいるオンライン三成会の人二人と一緒でした。石田三成の弟の子孫の人が代々住職を務めておられる、岐阜県揖斐郡大野町寺内にある石田善能寺を訪ねる途中に立ち寄りました。
 三成の弟の光重は豊臣秀次の家臣でしたが、秀次切腹の後、近江の横田村に隠棲します。その子供の光吉が関ヶ原の戦いの後、美濃に移り住み、荒れ果てていた勝慶寺に逃げ込み、その寺の娘と結婚し、浄土真宗派の善能寺として生まれ変わらせました。三成の弟の一族は関ヶ原の戦いの後、横田姓に替えたということですが、明治になって石田姓に戻し、寺の名前も「石田善能寺」に替えました。
 7年前、そのお寺の住職さんにお会いしていろいろと話してもらったのですが、話の中心は石田一族の苦難の歴史でした。一緒に訪ねた三成会の一人は、池田町の石田姓の人ですが、住職は池田町の石田姓の集落のことも知っておられ、石田一族に違いないと言っておられました。関ヶ原の戦いの後、石田一族は故郷にいられなくなって、各地に散っていきました。
 私はその時、母方の石田家に伝わる「三成の落とし子伝説」の話をして、家譜も見せたのですが、住職さんは三成の落とし子でないにしても、石田一族にかかわりのあることだと太鼓判を押してくださいました。母方に伝わる、三成が匿われた庄屋は、垂井町梅谷にあり、峠を越えると池田町にたどり着きますし、さらに北に向かえば、善能寺に行き着きます。石田一族にかかわりのある地点が一本の線でつながるわけで、そこになんらかの関連性があることがうかがえます。

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