石田三成の実像234 「佐和山城探訪記」5 千貫井 津田清幽・土田桃雲斎のその後

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 写真は昨年の11月23日ののろし駅伝の日に佐和山に登った際に撮った、千貫井です。本丸に近い八合目にある小さな池ですが、渇水することがなく金千貫の値打ちがあるほど貴重な水資源であったという意味であり、城内の名水であったと言われています。左に小さな祠があり、佐和山の下からもこの祠が見えるところがあります。逆に千貫井のところからの眺めも素晴らしく、眼下に彦根の町並みが広がっています。
 佐和山に登るたびに「つはものどもが夢の跡」という芭蕉の句の一節が思い浮かびます。佐和山落城の際、家康の使者と会見した津田清幽ですが、その後の活躍は見事です。攻めてきた脇坂隊の村瀬忠兵衛を捕縛して、彼を盾にして逃走して、家康の許しを得ます。その際、石田三成の三男の左吉を伴い、高野山の木食上人のもとに届けます。左吉は出家して、命が助かり、深長坊清幽と名乗りますが、逃走を助けてくれた津田清幽に感謝した上での命名でしょう。津田清幽は家康に許されて一命を取り止めますが、それは津田が以前、家康に仕えていたことが関係しているのかもしれません。石田三成の兄の正澄が堺奉行だった時、家康が堺に行き、正澄に津田清幽を託したという経緯があります。
 土田桃雲が本丸にいる三成夫人を刺し殺して、天守閣に火を放って自刃したということが伝わっています。「佐和山落城記」では、火を放ったのは桃雲だとしているものの、桃雲自身は石田一族や家臣たちのいたましい自害のさまを見て、自分は譜代の家臣でもなく、死んでも何の益もない、みんなの菩提を弔おうと思って、抜け道より逃れて水翁と号して各地を回ったとあります。太田牛一撰の「慶長記」では、桃雲は腹十文字に切って自刃したとあります。三成夫人が佐和山城で自刃せずに、落ち延びたということを白川亨氏が明らかにされました。三成の兄の正澄の夫人も落ち延びています。火を放ったということに関しても、城が燃えたというのは疑わしい点があります。落城後、城に入った東軍が、佐和山城の質素さに驚いたという話があり、それが事実なら城は焼失していなかったことになります。また、井伊直政もこの佐和山でこの後、生活していますから、城は使える状態で残っていたということになります。
 

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