石田三成の実像299 「直江兼続と三成」41 江宮隆之氏「形影相添う主従に生じた戦略不一致」
これも「新・歴史群像シリーズ 直江兼続」に載っている文章ですが、江宮隆之氏が論じているのは、家康が三成挙兵の報を聞いて会津攻めを止めて西に引き返した時の、上杉景勝と直江兼続の戦略の違いです。兼続は家康軍を革籠原におびき寄せて討つ作戦を立てていましたが、家康が引き返した場合、家康を追撃する第二作戦を立てていたと言います。それが三成との家康挟撃作戦であり、家康を討つこと事こそが大局的に肝心なことだと考えていました。
しかし、上杉景勝は違いました。会津若松城から出陣して家康を討ちに関東まで赴けば、伊達や最上に攻められるのは必定であり、今上杉がやらねばいけないのは、最上領を奪い取り、越後を取り戻すことであるというものでした。
江宮氏は景勝の言っていることは、東北地域だけに限定した戦術論であり、兼続が考えていたのは、日本全体を見越して、総合的な判断に基づいて立てられた戦略論であったと言っています。確かにその通りですが、家康が小山から引き返した時点で、兼続が本当に家康を追撃して関東まで進出する気があったのかどうか疑問ですし、それを意図していたとしても、実際の行動に移れば、宇都宮にそれに備えて結城秀康の軍も秀忠率いる徳川軍もいました。それらを蹴散らかして、江戸城まで攻め入るのは至難のわざでした。
秀忠は8月24日に家康の指示を受けて宇都宮を出発し、中山道を関ヶ原まで向かいますが、周知のように上田城の真田昌幸に進軍を止められ、上田城攻撃に手間取っていたため、結局、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。家康にとっては大きな誤算でしたが、秀忠が宇都宮を離れたのは、上杉軍が追撃して来ないことが分かった上での家康の判断でした。
景勝は兼続の家康追撃策に首を縦に振りませんでしたが、それも当然の決断だと思われます。兼続とて実際は上杉勢だけで(佐竹義宣の助力もあったかもしれませんが、佐竹家も実際割れていました)関東に攻め入るのは難しいと踏んだはずです。三成も東北の状況を見て、兼続がすぐに関東に進出して家康討伐にかかるとは、あまり期待していなかったのではないでしょうか。三成は兼続が家康を江戸に釘付けにすることも難しいと判断していたでしょうし、関ヶ原に家康が9月14日に着陣したことについても、予想より早いことに驚いたかもしれませんが、あくまで想定内のことだったと考えられます。
しかし、上杉景勝は違いました。会津若松城から出陣して家康を討ちに関東まで赴けば、伊達や最上に攻められるのは必定であり、今上杉がやらねばいけないのは、最上領を奪い取り、越後を取り戻すことであるというものでした。
江宮氏は景勝の言っていることは、東北地域だけに限定した戦術論であり、兼続が考えていたのは、日本全体を見越して、総合的な判断に基づいて立てられた戦略論であったと言っています。確かにその通りですが、家康が小山から引き返した時点で、兼続が本当に家康を追撃して関東まで進出する気があったのかどうか疑問ですし、それを意図していたとしても、実際の行動に移れば、宇都宮にそれに備えて結城秀康の軍も秀忠率いる徳川軍もいました。それらを蹴散らかして、江戸城まで攻め入るのは至難のわざでした。
秀忠は8月24日に家康の指示を受けて宇都宮を出発し、中山道を関ヶ原まで向かいますが、周知のように上田城の真田昌幸に進軍を止められ、上田城攻撃に手間取っていたため、結局、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。家康にとっては大きな誤算でしたが、秀忠が宇都宮を離れたのは、上杉軍が追撃して来ないことが分かった上での家康の判断でした。
景勝は兼続の家康追撃策に首を縦に振りませんでしたが、それも当然の決断だと思われます。兼続とて実際は上杉勢だけで(佐竹義宣の助力もあったかもしれませんが、佐竹家も実際割れていました)関東に攻め入るのは難しいと踏んだはずです。三成も東北の状況を見て、兼続がすぐに関東に進出して家康討伐にかかるとは、あまり期待していなかったのではないでしょうか。三成は兼続が家康を江戸に釘付けにすることも難しいと判断していたでしょうし、関ヶ原に家康が9月14日に着陣したことについても、予想より早いことに驚いたかもしれませんが、あくまで想定内のことだったと考えられます。
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