石田三成の実像312 江宮隆之氏「柴田軍を驚愕させた美濃返し、親友吉継とともに才器を示す」
一昨日最後に触れた江宮隆之氏ですが、「歴史街道」6月号「直江兼続と石田三成 義を貫いて生きる」の中で、江宮氏が賤ヶ岳の戦いにおける三成と大谷吉継の活躍を描いており、「先懸衆」の話もその一つとして紹介されています。
江宮氏は賤ヶ岳の陣地造りに大谷吉継と共に関わったというふうに書き、それは三成、吉継共に湖北出身で土地勘があったからだと言います。陣地造りに関わっていたというのは私はあまりよく知らないのですが、大谷吉継が湖北の出身だとするのは、最近は疑問を持たれて、出身地については確定していないようです。
史料的には三成が関ヶ原の戦いの際に、称名寺に宛てた諜報活動を示す書状が有名であり、太田浩司氏もその書状を紹介していますが、江宮氏はそれには触れず、秀吉軍が岐阜から賤ヶ岳までの52キロの距離をわずか5時間で引き返した時に、三成と吉継が先発して道中に松明と握り飯を用意させた点をまず挙げています。
この活躍についてもよく紹介されることですが、以前に、長浜市石田町で開かれた三成祭の際に太田浩司氏が講演された折、賤ヶ岳の戦いの時の三成のこういう兵站的な活躍について質問していた人がいました。しかし、太田浩司氏は史料にはそういうことが一切書かれていないとして否定的な見解を述べていました。また夜の間に、三成が稲を干すための杭に蓑笠を着せて兵に見せかけ、多数の篝火をたいて本隊が着くまで時間を稼いだと江宮氏は述べていますが、これは「読本 石田三成」にも載っている話です。
また一昨日述べたことの重複になりますが、賤ヶ岳の戦いで三成や吉継が槍働きをしたことを江宮氏は書き、さらに彼らが「賤ヶ岳先懸衆」と呼ばれ、彼らこそが一番手柄であり、「賤ヶ岳七本槍」は二番手柄という意識を秀吉は持っていたのではないかとしています。しかし、そういう先懸衆の働きは、「七本槍」という語呂がよかったためか、あるいは三成たちが関ヶ原の戦いで敗れたためか、歴史から消え去ったと述べています。
しかし、このことは別にしても、弱冠24歳の三成がこの時期から外交や兵站という場面で大きな働きをしており、その働きは、加藤清正や福島正則に劣るものではなかったと氏は言い、秀吉が三成のことをほめた「我に異ならぬ才器を持つ者は三成のみ」という言葉を出しています。
江宮氏は賤ヶ岳の陣地造りに大谷吉継と共に関わったというふうに書き、それは三成、吉継共に湖北出身で土地勘があったからだと言います。陣地造りに関わっていたというのは私はあまりよく知らないのですが、大谷吉継が湖北の出身だとするのは、最近は疑問を持たれて、出身地については確定していないようです。
史料的には三成が関ヶ原の戦いの際に、称名寺に宛てた諜報活動を示す書状が有名であり、太田浩司氏もその書状を紹介していますが、江宮氏はそれには触れず、秀吉軍が岐阜から賤ヶ岳までの52キロの距離をわずか5時間で引き返した時に、三成と吉継が先発して道中に松明と握り飯を用意させた点をまず挙げています。
この活躍についてもよく紹介されることですが、以前に、長浜市石田町で開かれた三成祭の際に太田浩司氏が講演された折、賤ヶ岳の戦いの時の三成のこういう兵站的な活躍について質問していた人がいました。しかし、太田浩司氏は史料にはそういうことが一切書かれていないとして否定的な見解を述べていました。また夜の間に、三成が稲を干すための杭に蓑笠を着せて兵に見せかけ、多数の篝火をたいて本隊が着くまで時間を稼いだと江宮氏は述べていますが、これは「読本 石田三成」にも載っている話です。
また一昨日述べたことの重複になりますが、賤ヶ岳の戦いで三成や吉継が槍働きをしたことを江宮氏は書き、さらに彼らが「賤ヶ岳先懸衆」と呼ばれ、彼らこそが一番手柄であり、「賤ヶ岳七本槍」は二番手柄という意識を秀吉は持っていたのではないかとしています。しかし、そういう先懸衆の働きは、「七本槍」という語呂がよかったためか、あるいは三成たちが関ヶ原の戦いで敗れたためか、歴史から消え去ったと述べています。
しかし、このことは別にしても、弱冠24歳の三成がこの時期から外交や兵站という場面で大きな働きをしており、その働きは、加藤清正や福島正則に劣るものではなかったと氏は言い、秀吉が三成のことをほめた「我に異ならぬ才器を持つ者は三成のみ」という言葉を出しています。
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