石田三成の実像499 学研M文庫・江宮隆之「石田三成」3

  この小説では三成が島左近を召し抱えるのは佐和山城主になってからだと書かれています。確かに、水口四万石の城主の時代では、島左近は他家に仕えており、時代が合いません。十九万石の三成が、島左近に与えるのはやはり一万五千石というふうに書かれています。もっとも、逆に三成が佐和山城主になってから島左近を召し抱えたとすると家臣になる時期が遅くなり過ぎるのですが。
  文禄・慶長の役に対しても、三成は反対の立場であったことが明確に書かれています。小西行長や宗義智、それに大谷吉継と共に早期に和平を整えようと協力しています。前田利家の死後の直後に起こった七将襲撃事件においては、三成が徳川屋敷に逃げ込んだという従来通りの捉え方がなされていますが、伏見城の治部少輔丸の自分の屋敷に立てこもったという説を笠谷和比古氏は唱えておられますし、「三成伝説」でもその説を取り上げさせていただきました。
 また、徳川屋敷で三成が家康と対面した時、豊臣家を粗略には扱わないと家康が三成に約束したことを三成は信じてしまうという場面がありますが、そういう展開になっているのは、三成がその後表立った動きを見せず、家康が三成の挙兵を予想できなかったことにつながっていくからです。
 作者は家康が三成挙兵を見越して上杉討伐に関東に向かったという従来の捉え方も否定しています。確かに家康は有力大名を一つずつつぶしてゆくという方策を取っていました。前田家から人質を取り、浅野長政を蟄居させ、宇喜多家の内部抗争をあおりたて、今度は上杉征伐です。敵の一斉の挙兵をあおり立てるという危ない方法を家康が取ったかどうか疑問です。
 実際、西軍は日本を二分するような大勢力になり、関ヶ原の戦いも小早川秀秋の裏切りがなかったら、勝敗はどうなっていたか分かりません。それだけのリスクを家康が冒すかどうかです。三成たちの挙兵の可能性はあるかもしれないと思っていたものの、日本を二分するような大勢力になるとは思っていなかったはずであり、、「三成伝説」でもそういうふうに書かせていただきました。
 またこの小説では宇喜多秀家が西軍の盟主であったと書かれています。秀家が豊国社で必勝祈願の盛大な出陣式を七月四日に行ったことが、豊国社の別当であった神龍院梵舜の日記に書かれているのですが、作者はこれを根拠にしています。その時期、三成の方は大谷吉継を佐和山に呼んで家康打倒の挙兵を打ち明け、参加を促していますから、秀家は三成とは別行動を取っていることになります。
 秀家が西軍の中心的な存在であったとする捉え方もありますし、坂上天陽氏の「小説 関ヶ原」に至っては秀家がまず挙兵を呼びかけたという極端な話になっています。家康弾劾の書である「家康違いの条条」も、作製したのは三成自身でも、出させたのは五大老の一人である秀家だと江宮隆之氏は述べ、文言に「故太閤様のご恩」という言葉を使えたのは彼がいたからだと証拠を挙げています。

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