石田三成の実像584  「歴史魂」の「石田三成という生き様」5 「三成を信じた男たち」2 大谷吉継

 「歴史魂」の「石田三成という生き様」の中の「三成を信じた男たち」の中に、大谷吉継が島左近と同様、2ページにわたって大きく取り上げられています。三成と大谷吉継は厚い友情で結ばれ、吉継は友のために命を投げ出す覚悟を持っており、関ヶ原で実践したという捉え方であり、書かれている内容は、オンライン三成会編「三成伝説」の「大谷吉継」の章で述べられていることと共通する点が多いと云えます。
 共通点をざっと挙げてみますと、三成と吉継は若い時から小姓として秀吉に仕えていたこと、共に奉行として活躍し、朝鮮半島に渡ったこと、刑部少輔に任じられ敦賀5万石の城主になったこと、吉継が病に冒され関ヶ原の戦いの際には病状が悪化して輿に乗って指揮をしていたこと、茶会で吉継の病気を知る武将たちが彼が口にした茶碗を避けていた時に、三成がその茶碗を取って飲み干したため、三成に恩義を感じたという逸話、秀吉が吉継に百万の兵を与えて指揮させたいと言った逸話、三成が挙兵の意思を告げた時、吉継が家康との戦いに反対したものの、結局三成との友情の方を選び西軍に参加したこと、吉継が松尾山に陣取った小早川隊の動きに警戒した布陣を取ったこと、実際裏切った小早川隊をよく防いだものの、赤座・朽木・小川・脇坂隊も裏切り、耐え切れなくなった大谷隊が壊滅して吉継も自刃したことなどです。
 オンライン三成会編「三成伝説」にはなく「三成を信じた男たち」で書かれていることは、真田家と親しく、吉継の娘が真田幸村の正室になっていること、三成と吉継の絆の深さを語るものとして神屋宗湛の「宗湛日記」の記述に言及していること、吉継が家康と三成の仲を取り持つなどの調停役に長けていたこと(後述します)、大谷吉継の刀剣や甲冑など残したものがほとんどない(来迎寺に移築された中門のみが吉継の生きた証を伝えていると書かれており、その写真も掲載されています)ことなどです。
 「歴史魂」の「宗湛日記」についての記述は、三成が宗湛に頼んで、秀吉の怒りを買っていた吉継に、宗湛の茶道具を披露する手配をしたが、これは三成が吉継を喜ばせ元気づけるためにしたことであり、吉継が秀吉の怒りを買ったのも、吉継が三成のために諌言したからだと書かれています。
 この「宗湛日記」についての記述は、白川亨氏の「真説 石田三成の生涯」から引いてきたものではないかと思われますが、正確には次のようなものです。吉継が秀吉の勘気に触れ、香椎村に隠れていた時、三成から頼まれた神屋宗湛が、船で吉継を姪ノ浜まで送り、興徳寺に匿い、吉継の希望により、宗湛の所持する道具(数の台と博多文琳)を持参し、吉継にお目に懸けました。吉継が秀吉に諫言したこととは、三成夫人の伯父に当たる尾藤左衛門尉の改易・追放であり、三成の苦衷を察して吉継が行ったことだと白川氏は書いておられます。尾藤左衛門尉が処分を受けたのは、秀吉の九州攻めの際の日向白根坂の戦いで味方が苦戦した時、応援に駆けつけなかったためと推察されています。

 

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