石田三成の実像586  大西泰正氏「研究ノート 豪姫のこと」2 秀家と豪姫の婚儀

 三成についてはいつ正室と婚礼したかはよくわかっていませんが、これについてはまた後述します。
 大西泰正氏は秀吉の膝下にあった豪姫が天正16年(1588年)頃に宇喜多秀家と婚礼したとする桑田氏及び藤島氏の見解の細部について検討を加えられています。豪姫が秀吉と北政所のもとにいたことは、桑田忠親氏が編纂された「太閤書信」所収の複数の秀吉消息によってほぼ確かだとされています。秀吉は豪姫を「五もし」と表現し、「五もし」と呼んでいたと云います。「きん五」の名前も出てきますが、羽柴秀俊(後の小早川秀秋)のことであり、彼も豪姫と同様に秀吉と北政所のもとで育てられ、特に豪姫が秀吉に贔屓にされていたことが分かると大西氏は書いておられます。これらの書状は、天正12年(1584年)から天正15年(1587年)頃のものと推定されていますが、これらの書状のいくつかは桑田忠親氏の「太閤の手紙」や、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)で取り上げられ、私も読んだことがあります。 
  桑田氏が秀家と豪姫の婚礼時期の下限を天正16年(1588年)とされた根拠について、天正16年10月5日付の「ひんせんの五かた」を「備前の御方」という秀家に嫁いだ豪姫の呼称と見なしたからだと云います。二木謙一氏もこの説を補強しており、さらに「輝元公上洛日記」の天正16年8月7日の条にある「関白様も姫子御いだき成され」の「姫子」を豪姫として、その時点では嫁していないという論拠とされていますが、大西氏はその「姫子」を豪姫と見なすことには疑義をさしはさまれています(二木氏の説に対する疑義は他にもあり、侍女のちくに宛てた書状の中にある「おひめ・五もし」を豪姫一人に比定している点も指摘されていますが)。
 この「姫子」について大西氏は触れておられませんが、福田千鶴氏は「淀殿」の中で、秀吉の養女であった「小姫」と書いておられます。信長の二男であった信雄の娘であり、秀吉の養女になったのは2、3歳の頃と云います。小姫は天正13年(1585年)の生まれであり、ルイス・フロイスの「日本史」によれば、天正15年(1587年)7月14日に九州攻めから大坂城に戻った秀吉が「ある貴人の娘」を養女にして、彼女のために大坂城で盛大な祝宴を催したとあり、その記事が正しければ、小姫が秀吉の養女になったのは、天正15年の秋頃だと福田氏は書いておられます。
 大西氏は「輝元公上洛日記」の天正16年8月7日の条の関連部分の原文を「研究ノート 豪姫のこと」の後注に載せられていますが、福田氏は出典を書かれておらず、天正17年のことだとして、1年、年を間違われています(豪姫と小姫の年齢差もおかしく、実際11歳の差があるのですが、福田氏はその差を6歳とされています)。上洛した毛利輝元は、聚楽城において碁を見ることになり、徳川家康と豊臣秀長も同席し、二人の案内で屋敷の中や台所までを見学し、秀吉は姫子を抱いて共に雑談しながら、屋敷を見て廻ったと福田氏はその部分を訳されています。
 大西氏は秀吉が豪姫のことを文禄2年(1593年)に「南御方」と改き称するまでほぼ一貫して「五もし」と表現しており、また豪姫が他に「ひんせんの五かた」と呼ばれた証拠がないことから、「ひんせんの五かた」は「備前宰相秀家夫人の豪姫」といった解釈の方が妥当ではないかとおっしゃっています。
 もっとも、「ひんせんの」との文言がこの時点で初めて加わったという見方に立てば、秀家と豪姫の婚礼が天正16年10月以前に行われたという通説的見解は、おおむね支持できると大西氏は考えておられますが、この後、別の史料の提示によってさらにもう少し遡れると結論付けておられます。
 

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