大河ドラマ探訪45  石田三成の実像637 「江」第19回「初の縁談」1 初が嫁いだ時期・聚楽第

 大河ドラマ「江」第19回「初の縁談」は、初が結婚する経緯が描かれていましたが、初の京極高次と結婚したいという思いをかなえてやるために、茶々が秀吉に頼み込むという展開でした。そういうところが、現代のラブ・ストーリー的な解釈が施されていると云え、真実味が乏しい気がしてなりません。
 大河ドラマ「江」では、初が京極高次に嫁いだのは天正15(1587)年秀吉の九州攻めの後という捉え方ですが、桐野作人氏も「江の生涯を歩く」の中で、京極高次が九州攻めの後1万石を領有し、大溝城を居城とした頃に、初との縁組が行われたと書いておられます。この大溝城跡は「江紀行」の中でも紹介されていましたが、「江の生涯を歩く」の中でも取り上げられています。なお、桐野氏は初が大溝城に住んだかどうかについては不明だと書いておられます。
 一方、福田千鶴氏は前にも紹介しましたように、茶々が秀吉の妻となる天正14(1586)年1月までに、初も京極高次に嫁いだとされており、嫁いだ時期に開きがあります。このあたりは今後の研究成果を待ちたいところですが、江と秀勝との縁組が天正13年10月であれば、初の縁組も早かったのではないかという気がします。
 大河ドラマ「江」の公式ホームページの略年譜を見ますと、江と秀勝との結婚は1592年と書かれており、最近の研究成果が反映されていません。
 三成は聚楽第に拝謁にやってきた家康に、聚楽第という名前の蘊蓄を傾けていましたが、相変わらずの描き方です。「江紀行」でも紹介されていた聚楽第址碑が「江の生涯を歩く」でも紹介されていますが、聚楽第には五層の天守があった(三井記念美術館蔵の「聚楽第図屏風」に描かれているとの記載があります)ので、聚楽城と呼んだ方がよいとも書かれていますし、福田千鶴氏も複数の著書の中で聚楽城と書いておられます。
 「京都時代マップ 安土桃山編」にも聚楽第のことが取り上げられていますが、「江紀行」でも紹介されていた堀川ごぼう(別名・聚楽ごぼう)についても触れられています。町人たちのごみ捨て場となっていた堀跡の土が良質の有機肥料となり、普通のごぼうの数倍太くたくましい堀川ごぼうを育てたのだろうと書かれています。天然の断熱・除湿作用を持つ「聚楽壁」のことにも触れられていますが、西陣の聚楽第跡地付近から出る聚楽土を使っているとあります。ただ、残念なことに、「京都時代マップ 安土桃山編」の中では、秀次切腹事件に関して三成たちの陰謀とも云われると記されており、汚名を着せられています。
 またオンライン三成会編「三成伝説」の「山城・京」の章の中の「秀吉の京都改造」でも、聚楽第についても触れられていますし、三成が京都奉行を務めていたこと(慶長元<1596>年3月には着任していた)についても書かれています。

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