石田三成の実像639 天正大地震の際、若狭湾で津波があったとの記述・坂本城で秀吉地震に遭遇

 5月27日付朝日新聞の朝刊に、天正大地震に関する記事が載っていました。この地震は天正13年11月28日に起こったものですが、この時、若狭地方が津波に襲われ多数の死者が出たことが、「兼見卿記」とルイス・フロイスの「日本史」に記されていることに、4月上旬に外岡慎一郎氏が気づきました。
 しかし、関西電力はすでに1981年にこの2つの文献の内容を把握しておりながら、75年発行の「日本被害地震総覧」(東京大学出版会)が天正大地震は岐阜県付近を震源とする内陸地震だったとしており、過去の被害を網羅している「総覧」の記述の方を、より信用度が高いと判断し、地元には「文献などに周辺で津波による大きな被害記録はない」と説明してきました。こういう都合のよい説明だけをした関西電力責任が問われ、福井県内の原発再開を認めるかどうかの地元の判断にも大きな影響を及ぼす可能性があると書かれています。
 「兼見卿記」には若狭湾周辺の海岸に波が打ち上げて家を押し流し、多数の人が死亡したと記されています。フロイスの「日本史」には若狭湾に当たる場所で山と思われるほど大きな波に襲われ、引き際に家屋も男女もさらっていってしまったと記載されています。フロイスの「日本史」は伝聞史料だが、「兼見卿記」にも同じ記述が見つかったことで、信頼できる可能性が強まったと外岡氏は話しておられます。
 ただし、理科年表(国立天文台編)には伊勢湾で津波があったかもしれないと書かれています。この点について、寒川旭氏の「秀吉を襲った大地震」の中で、天正大地震の被害についても具体的に書いておられますが、伊勢長島城内で家が焼失し、周囲一帯が河になったという「当代記」の記述について、周囲が河になったという表現は、洪水や液状化現象による水の湧き出し、伊勢湾北部を襲った津波などさまざまな解釈がなされると述べておられます。しかし、「秀吉を襲った大地震」では、天正大地震の時に若狭湾で津波があったことについては書かれていません。
 地震学の専門家の入倉孝次郎氏は震源が内陸の活断層や伊勢湾なら若狭湾で津波が起こることはまず考えられず、他の地震で津波が起きた可能性があると話しておられます。また島崎邦彦氏は海溝型地震と違い、活断層がある湾内は水深が浅いため、大きな津波にはなりにくいとおっしゃっています。
 関西電力は若狭地方で大津波があったかどうかを科学的に調べるボーリングの検討を始めていると云いますから、それによって事実関係がはっきりするのではないでしょうか。
 なお、この地震が起こった時、秀吉は佐々成政を降伏させた後、立ち寄ったこともある坂本城にいました。三成も一緒にいたのかもしれません。佐々攻めの帰りに、秀吉・景勝・三成・兼続による墜水の会があったとされていますが、史実ではない可能性が高いと云われています(墜水城跡についてはオンライン三成会編「三成伝説」でも取り上げられています)。佐々攻めの前に秀吉は関白になっていますが、三成は治部少輔に任じられています。天正大地震の際、長浜城にいた山内一豊と千代の一人娘の与禰(よね)が亡くなりますが、大河ドラマ「功名が辻」でこの悲しい場面が描かれていました。
 

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