石田三成の実像646 光成準治氏「豊臣政権の大名統制と取次」2 景勝への三成たちの弁解
光成準治氏「豊臣政権の大名統制と取次」には、天正15年11月22日付上杉景勝宛豊臣秀吉直書と、景勝宛増田長盛・石田三成副状が掲載されています。長年上杉氏に敵対してきた新発田重家を景勝が討ち取ったことを知らせる書状への返事が秀吉直書であり、その書状の最後に石田治部少輔と増田右衛門尉長盛が伝えますと書いてあり、副状で三成と長盛が豊臣家の方針や具体的対応を奏者となって行っているという形です。
光成準治氏は「豊臣政権の大名統制と取次」の中でこの書状を含めた複数の三成・長盛副状の内容を検討することによって、新発田問題に関する「手筋」は三成・長盛ルートだけでなく、複数のルートが存在したこと、三成・長盛が景勝を一方的に指南する取次ではなかったことを論じておられます。
天正15年11月22日付上杉景勝宛増田長盛・石田三成副状には興味深いことがいろいろ書かれていますので、まずその内容を紹介しておきます。全部で五ヶ条から成り立っており、まず第1条で改めて上杉氏が新発田重家を討ったという戦勝報告に対して祝いの言葉を述べていますが、秀吉様も満足されており、我々二人にとってもこの上なくめでたいことで、書状をもって申し述べるのが難しいほどだと書かれています(大仰な言い方ですが、相手に相当気を遣っていることがうかがえますし、新発田赦免問題への負い目のようなものがあるせいで、このような表現になったのかもしれません。)。
第2条では、秀吉様が九州平定を終えて京に戻られたので、景勝様もお礼を申し上げるのがよいと思っていたところ、直江兼続の弟の大国実頼が上洛されるとのこと、もっともなことであり、京都に着かれましたら、お世話しますし、謁見についても我々2人が疎かにしませんと書かれています(大国実頼は九州攻めと聚楽第建造の祝いの使者として上洛しました。前年6月の上杉景勝・直江兼続初上洛の際は三成が接待役を務めており、今回の大国実頼の上洛の際の世話役も自分たちがするから安心してほしいと言っているわけです。)。
次の第3条と第4条は2人が新発田赦免の件に関して弁解している文面であり、光成準治氏が後で考察を加えられている部分です。第3条はこちらの手続きする者がいて、過日、新発田重家を赦免するようにお願いしましたが、もしかしたら、我々2人がそのことを知っていたとお思いでしょうか(今回の再度の新発田赦免の件は三成たちとは別のルートを用いたものだと三成たちは主張していると光成氏は解説しておられます)と書き、景勝様のことを思ってお世話しており、他の事は全く考えていず、今後ともそのようにお思いください、我々2人のことはお疑いにならないようにとも書いています(景勝の疑いを晴らすのに三成たちは必死になっています。)。先年、景勝様が上洛してお帰りになる前に、誓詞をもって景勝様の決意は聞きましたので、決して粗略にはいたしませんとも書き添えられています。
さらに第4条でも、三成たちは我々に景勝様が疑いをお持ちになることは、景勝にも覚えがあるでしょうから、書状で弁解することは難しいとも書いています。我々二人はいつも景勝様に肩入れしてきたとも弁解し、新発田重家を討ち果たし、我々が申し上げていたとおりの結果になったので、満足していると相当気を遣った文になっています。
第5条で、大国実頼が上洛した様子は詳しくお知らせいたしますと書き、最後に来年は来春は景勝様がすみやかに上洛して、秀吉様へのお礼を申し上げるのがよく、油断なく用意されることが第一だと書いています(実際、景勝は三成たちの勧める通り、翌年再上洛しています)。
光成準治氏は「豊臣政権の大名統制と取次」の中でこの書状を含めた複数の三成・長盛副状の内容を検討することによって、新発田問題に関する「手筋」は三成・長盛ルートだけでなく、複数のルートが存在したこと、三成・長盛が景勝を一方的に指南する取次ではなかったことを論じておられます。
天正15年11月22日付上杉景勝宛増田長盛・石田三成副状には興味深いことがいろいろ書かれていますので、まずその内容を紹介しておきます。全部で五ヶ条から成り立っており、まず第1条で改めて上杉氏が新発田重家を討ったという戦勝報告に対して祝いの言葉を述べていますが、秀吉様も満足されており、我々二人にとってもこの上なくめでたいことで、書状をもって申し述べるのが難しいほどだと書かれています(大仰な言い方ですが、相手に相当気を遣っていることがうかがえますし、新発田赦免問題への負い目のようなものがあるせいで、このような表現になったのかもしれません。)。
第2条では、秀吉様が九州平定を終えて京に戻られたので、景勝様もお礼を申し上げるのがよいと思っていたところ、直江兼続の弟の大国実頼が上洛されるとのこと、もっともなことであり、京都に着かれましたら、お世話しますし、謁見についても我々2人が疎かにしませんと書かれています(大国実頼は九州攻めと聚楽第建造の祝いの使者として上洛しました。前年6月の上杉景勝・直江兼続初上洛の際は三成が接待役を務めており、今回の大国実頼の上洛の際の世話役も自分たちがするから安心してほしいと言っているわけです。)。
次の第3条と第4条は2人が新発田赦免の件に関して弁解している文面であり、光成準治氏が後で考察を加えられている部分です。第3条はこちらの手続きする者がいて、過日、新発田重家を赦免するようにお願いしましたが、もしかしたら、我々2人がそのことを知っていたとお思いでしょうか(今回の再度の新発田赦免の件は三成たちとは別のルートを用いたものだと三成たちは主張していると光成氏は解説しておられます)と書き、景勝様のことを思ってお世話しており、他の事は全く考えていず、今後ともそのようにお思いください、我々2人のことはお疑いにならないようにとも書いています(景勝の疑いを晴らすのに三成たちは必死になっています。)。先年、景勝様が上洛してお帰りになる前に、誓詞をもって景勝様の決意は聞きましたので、決して粗略にはいたしませんとも書き添えられています。
さらに第4条でも、三成たちは我々に景勝様が疑いをお持ちになることは、景勝にも覚えがあるでしょうから、書状で弁解することは難しいとも書いています。我々二人はいつも景勝様に肩入れしてきたとも弁解し、新発田重家を討ち果たし、我々が申し上げていたとおりの結果になったので、満足していると相当気を遣った文になっています。
第5条で、大国実頼が上洛した様子は詳しくお知らせいたしますと書き、最後に来年は来春は景勝様がすみやかに上洛して、秀吉様へのお礼を申し上げるのがよく、油断なく用意されることが第一だと書いています(実際、景勝は三成たちの勧める通り、翌年再上洛しています)。
この記事へのコメント