石田三成の実像657 漫画探訪39  山田芳裕氏「へうげもの」における三成6 「戦国時代の終焉」2

山田芳裕氏「へうげもの」5服(講談社文庫版)において、三成がまず登場するのが天皇の聚楽第行幸での場面です。馬に乗った三成が、やはり馬に乗った家康に北条氏の動向を訊ねますが、家康は北条氏に上洛を促しているものの、北条氏は強情だと答えます。三成は僭越ながら申し上げ候へばとことわりながら、ここは関白様の臣下としての腕の見せ所であり、さもなくば徳川様はいまだ豊臣に靡かぬと思われますと言い、さらに自分も小田原よりの荷や便り一切を抜かりなく検分致す所存であり、いかに些細なことでもそれがしにお伝えくださいとも言い放ちます。家康はむっとした表情を示しますが、何も言い返していません。三成が家康に対してこういう物言いをしたとは思えませんが、三成が関東政策に関わっていたことは事実です。
 この聚楽第行幸は天正16年4月14日から5日間にわたって行われました。当初は3日の予定でしたが、5日間に延長されました。「へうげもの」では秀吉が後陽成天皇に美酒を振舞いますが、天皇はこの酒は強すぎるとむせる場面が出て来ています。さらに主人公の古田織部は家康にかつての借りを返そうと伊丹の酒を振舞い、贅沢を好まぬ家康をして「淡旨」とうならせていました。
 この天正16年4月・5月あたりの秀吉・家康・北条氏の関係についても、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」の中に書かれています。4月28日の段階で、秀吉から北条氏に伝えられた内容が難題であり、5月6日には、秀吉と北条氏の交渉が決裂状態になったことが家康の家臣である松平家忠の日記に書かれています。この頃、京都では北条攻めの出陣は6月頃と言い触らされており、戦闘準備が開始されていたことを齋藤氏は明らかにしておられます。家康はこの状況を打開するために、5月21日、北条氏政・氏直宛ての、今月中に誰かが上洛することなどを求めた三ヶ条の起請文を突きつけるという強硬策に出ます。これが効を奏して北条氏規の上洛にとつながっていきます。
 三成が反北条勢力と関わっていたことも齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」に書かれています。天正14年5月25日付の塩谷義綱・白川義親宛の秀吉朱印状があり、増田長盛・石田三成連署の副状が添えられています。秀吉が関東の佐野家相続に関与していたことを示すもので、三成もその件に関わっていたことが分かります。佐野宗綱が天正14年元旦に戦死し、その後、佐竹派と北条派の暗闘があり、結局は11月頃、北条氏忠が入部し、北条派が勝利します。秀吉への報告は佐竹派勝利を告げるものであったものではないかと齋藤氏は推測されていますが、北条氏が巻き返し勝利したことを後で秀吉が政治問題化した形跡はなく、あるいは北条氏忠が佐野家の継承者という形で秀吉に報告されていたのか、その点は不明だとされています。
 また天正14年5月、反北条勢力の一人であった皆川広照も北条氏に帰属し、その報を受けた白川義親が増田長盛・石田三成に書状を出し、悲痛を訴え、秀吉が関東の問題に対処して、北条氏の脅威を取り除いてくれるように強く要望しています。 
 

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