石田三成の実像642 光成準治氏「豊臣政権の大名統制と取次」1 三成は上杉氏の取次ではなかった?

 山本博文・堀新・曽根勇二編「消された秀吉の真実ー徳川史観を越えて」(柏書房)の中に光成準治氏の「豊臣政権の大名統制と取次」が載っており、三成たち奉行衆の「取次」としての役割に考察が加えられていますが、私も「取次」についてここまで厳密に考えていなかったので、いろいろ考えさせられました。
 まず山本博文氏の「取次」論が紹介されていますが、豊臣政権においては中枢政治機構が未確立であったため、諸大名に対する政策指導は吏僚派奉行の裁量に委ねられ、この吏僚派奉行たちの任務が「取次」であり、奉行たちは情報を取捨選択することによって秀吉に伝達し、独自に担当の大名に対して軍事面や政策面の指導を行うことによって各大名の後見人としての機能を合わせ持っていたと云います。山本氏は島津氏に対する石田三成、伊達氏に対する浅野長政を「取次」とされていますが、山本氏の「取次」論については、「天下人の一級史料」にも書かれており、拙プログでも以前に取り上げさせていただきました(2010年11月28日付)。
 豊臣政権の初期には、家康や景勝・輝元たち大大名が取次の任に当たっており、これらの大大名が広域の大名を対象とする取次、指南であったのに対して、豊臣直臣は服属大名に直接つくものであったという藤田達生氏の説を光成準治氏は紹介されています。また同じように取次と呼ばれていても、レベルの違う者については峻別して理解すべきだという山本説についても紹介されています。
 光成氏はこのうち豊臣奉行層による取次に論を絞っておられます。大大名が直接秀吉につながっており、大老層は「取次」を介さずに直接に秀吉にものが言えたとする山本氏の説に対して、毛利氏の事例によって五大老にも「取次」は存在していたという津野倫明氏の説が取り上げられています。
 取次とされる豊臣奉行層の果たした役割については、領主交渉において、大名の身分保障・軍事指揮権・新服属地の「置目」奉行を役割とする「指南」、秀吉謁見や陳情の際の独占的な披露や取り成し・政策面の忠告を役割とする「取次」、諸領主の臣従促進・大名個々の利益の代弁や取り成しを役割とする「奏者」としての三階層に分かれていたとする戸谷穂高氏の説(九州政策の事例などをもとにして)が紹介されています。しかし、光成氏はこのような役割分担が、すべての大名交渉においても当てはまるのか疑問が残るとされています。
 そこで光成氏は上杉氏に対する秀吉及び秀吉奉行層の文書を通じて、大大名に対する取次のあり方を検討を加えられています。結論から云えば、光成氏は三成や増田長盛は秀吉の意向を景勝に伝える「奏者」としての役割は果たしているものの、上杉氏に対する彼等の関与が軍事面・政策面での指導や後見人としての機能にまで及んでおらず、上杉氏に対する「取次」は存在していなかったと論じておられます。新発田攻めは景勝の強い要望を豊臣政権側が受諾したものですが、その際に景勝のために尽力したのが三成と長盛であり、彼らは大名の利益のために行動する「手筋」という性格が強く、「取次」ではなかったと指摘しておられます。

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