石田三成の実像659 宝塚歌劇団公演「美しき生涯」のシナリオ1 鶴松も秀頼も三成の子?

 宝塚大劇場での歌劇団公演「美しき生涯ー石田三成 永遠の愛と義」を実際見に行ってきた人から、公演のシナリオをコピーでいただきました。私自身は公演自身は見ていないのですが、シナリオを読むことで、その歌劇の一端を知ることができました。肝心のミュージカルの迫力や素晴らしさはシナリオからはわかるはずもなく、それは頭で想像するしかありません。しかし、さぞや観客を引きつける見応えがあったものだと考えられます。どれだけ人気を呼んだかについても、私は把握していませんが、石田三成を主人公にしたミュージカルができるだけでも隔世の感があり、かつては到底考えられなかったことです。さぞや恰好のよく颯爽とした、また清廉潔白だった三成の姿が示されて、その悲劇性と相まって観客の心をつかんだに違いありません。
 ただし、内容についてはいろいろ疑問を呈したくなります。「義と愛の武将」と位置付けられているのはよいのですが、鶴松と秀頼を、三成と茶々の子にしてしまっては、豊臣家への「義」を貫いたことにはならないのではないでしょうか。公には秀吉の子を守るといっても、結局、自分の子を守ろうとしているわけですから、義がしぼんでしまうような気がするのですが。むろん、ミュージカルでは三成が義と愛に苦しむという場面は用意されていますが、それでも違和感は拭えません。
 秀頼の父親が三成でありえないことは、歴史的事実が証明してくれています。茶々が懐妊した時、三成は朝鮮半島に渡っていました。鶴松や秀頼が不義の子であったというのは、江戸時代に作られた史観です。茶々が大野治長と関係があったという話もありますが、史実として確かめられていることではありません。前にも拙ブログで取り上げたように、赤石いとこ氏が秀吉は大坂城奥御殿を厳重な規律で管理しており、それは妻妾に対しても同様であり、不祥事は起こりえなかったと指摘しておられます。秀頼が不義の子でなかったことは、秀吉没後、おねが京都に移り住んで秀頼を補佐・後見をしていたことでも明らかであると示されています(跡部信氏や福田千鶴氏などによる研究成果)。
 ところが、「美しき生涯」では通説に従って、おねと茶々、おねと三成、及び賤ヶ岳七本槍と三成はそれぞれ対立関係で描かれています。まず大坂城の花見の場面から始まりますが、七本槍が荒々しい剣舞に対して、三成は知的な雰囲気の能のような舞を舞い、それを七本槍は冷たい表情で見つめたとありますから、すでに最初から両者の対立は歴然としていたというふうに描かれています。
 そこに秀吉の子誕生の報が入り、秀吉は狂喜しおねに「わこ」の顔を見に行こうと言って立ち去りますが、三成は秀吉の子の誕生を知っても無表情であり、秀吉たちが去った後も「わこ様か」とつぶやき、孤独な様でたたずんでいます。この子が鶴松とするなら、誕生日は5月27日ですから、花見の時としているのは時期的に合いません。鶴松が生まれたのは淀城でした。

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