日本文学探訪88  宮沢賢治の小説「なめとこ山の熊」3 熊に許しを請いながら死んでゆく小十郎 

 命を助けられた熊は約束通り、2年後に、小十郎の家の前で死んでいました。小十郎はそれを見て、熊を拝むようにします。猟師として自分がしていることの正当性を失って、罪深さを自覚したわけです。
 そんなことがあって、しばらくして、小十郎は家を出る前に、母親に生まれて初めて水に入るのが嫌になったとこぼします。老いを自覚した言葉であり、彼の死を予感させる伏線になっています。自分のしていることに対する罪の意識が深まっていたそのつながりの上にこの言葉があるとも云えます。
 その日、小十郎は大きな熊と遭遇します。銃で撃ってもその熊は倒れず、小十郎に襲いかかります。瀕死の彼の耳に、「おまえを殺すつもりはなかった」という熊の言葉が入ります。小十郎は青白い光を見ながら、俺は死ぬんだと思い、「熊ども、許せよ」と心の中で言います。熊を恨むどころか、今まで多くの熊を犠牲にしてきたことに対して、彼らに許しを請います。熊のことを第一義に考えていた、いかにも小十郎らしい死に方です。この熊はなめとこ山の化身かもしれません。
 それから数日後、小十郎の死体の周りをたくさんの熊が取り囲み、魂送りの儀式をしていました。小十郎の口元には笑みさえ浮かんでいたとあります。
 小十郎と熊との心の交流がうかがわれる場面ですが、熊が死んだ時にするアイヌの儀式を彷彿とさせます。この小説では、小十郎の死体を取り囲んでいたのは、「黒い大きなもの」とあって、熊とは描写されていませんので、山も空も含んだ大自然そのものが、死んだ小十郎に対して哀悼の意を表しているのだとも考えられます。大きなふところの下で、小十郎は満足して死んで行ったのでしょう。死ぬことで、初めて小十郎は安らぎを得たわけです。
 生けとし生けるものはすべて互いに傷つけ合い、奪い合うことによってしかその命を保つことができないものの、殺す側と殺される側との心の交わりを通じて、そうした哀しみや不幸を描き、どのような救済の道が可能かを模索した作品だというふうに、授業では説明しましたが、あくまでこれは一つの解釈に過ぎません。
 われわれ人間は生きるために牛や豚の肉を毎日のように食べているのだから、否応なく間接的に動物を殺しているわけであり、そういう犠牲のうちにわれわれの生は成り立っているのだという認識を持つきっかけになれば、この作品を読んだ意義があるというふうに授業では述べました。
 その授業では、宮沢賢治についても、ざっと触れておきました。農民救済の願いが「雨ニモマケズ」の詩に表れていること、宇宙的な感覚を持ち、「銀河鉄道の夜」などにそれがよく出ていること、若くしてなくなった妹トシのことを詠んだ「永訣の朝」(この作品についても別の機会に授業で取り上げたことがあり、拙ブログでも触れました)という詩、ブラックユーモア的な童話「注文の多い料理店」のことなども簡単に紹介しました。
 

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