大河ドラマ探訪67  「戦国武将の竹生島信仰」1 浅井長政の竹生島信仰を示す資料の少なさ

 大河ドラマ「江」第3回で信長が子供の江(すでに上野樹里が演じていました)を竹生島に案内するという話が出ていましたし、この回の江紀行でも竹生島が紹介されていました。信長が竹生島に来たと伝えられると紀行では述べられていましたが、史実として確かめられていることではないようです。(この記事の後、「信長公記」に信長が竹生島参詣したという記述があることを知り、その内容を拙ブログ8月26日付記事で書かせていただきました)
 「浅井氏の竹生島信仰と秀吉の大望~浅井三姉妹 心の源流~」展図録である「戦国武将の竹生島信仰」(サンライズ出版)に興味深いことがいろいろ書かれています。浅井郡に居住する民はすべて古来より竹生島の氏子とされてきており、浅井氏も竹生島弁才天を崇敬してきましたが、実際、浅井久政の母である寿松が奉納した弁才天坐像、浅井久政(浅井長政の父)の奉納した弁才天坐像(この像は江紀行で取り上げられていました)の写真も収録されています。特に後者は竹生島に現存する奉納弁才天像のうち最大のものであり、像高が145センチあります。永禄8年に作られたことが、背面の墨書によりわかりますが、施主名は不鮮明なため判読できないものの、久政が永禄9年に受頭していること(受頭の前年に像造するのが通例だと云います)、堂々たる像の大きさなどから判断して、久政が奉納した弁才天であるとするのが妥当だという見解が示されています。 
 浅井久政から浅井長政に家督が移った時、竹生島も関わりがあったことが「浅井三代記」に書かれていますが、久政が早崎浦で鴨鷹狩りを楽しみ、竹生島詣でをしていた時、浅井の重臣たちは長政を小谷城に移して、クーデターを起こしました。久政の六角氏に対する弱腰政策に重臣たちが不満を募らせたためであり、事実を知った久政は激怒して竹生島に一時立てこもりましたが、結局、長政への家督移譲を認め、小谷城小丸に移り住みました。もっとも、「浅井三代記」には脚色や創作の部分もあるので、そのまま信用してはならないが、浅井氏と竹生島のつながりの深さがうかがえる記述だと解説には書かれています。
 江紀行では浅井長政が深く竹生島を信仰していたと述べられていましたが、浅井長政と竹生島との関係を示す資料は案外少なく、竹生島の蓮華会(中世から受け継がれてきた祭礼行事)の責任者である「四人衆」に宛てた浅井長政書状と浅井氏滅亡後に竹生島に出した秀吉書状くらいのものであることが明らかにされています。前者の長政書状は四人衆が、来年の蓮華会の頭役の選定に関して何らかのことを長政に尋ねたその返答ですが、長政自身は晩年は信長との緊張状態が続いていたこともあって、小谷城落城まで蓮華会を受頭する機会は一度もありませんでした。
 後者の秀吉は浅井氏滅亡後に長政が生前に預けていた材木を引き渡すよう秀吉が命じたものであり、竹生島が信長に表面上は従いながらも、竹生島が長政の用材を隠し持っていたものだと考えられると書かれています。
 浅井氏が竹生島に対して経済的な支援をしている点については、久政が銭三千疋、長政が銭一万疋を奉加している事実が指摘されています。竹生島は永禄元年に大火災があり、復興を図るものの、戦国乱世でなかなか順調にいかなかったと云います。

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