石田三成の実像682 宝塚歌劇団公演「美しき生涯」のシナリオ11 秀吉に和睦を進言する三成たち

 次は文禄3年春の場面に移り、舞台は大坂城です。三成が朝鮮半島で戦いで兵は疲れており、和睦をするように秀吉に進言し、大谷吉継・長束正家・増田長盛・前田玄以も同調しますが、秀吉は聞き入れず、武将を休ませれば自分への謀反を企てるから、どこでもいい、戦いを続けなくてはならないと言います。それに対して、三成はいたずらに異国の民を苦しめるのは間違いだと諫言しますが、秀吉のいいなりになっていず自分の意見を堂々と言う三成の姿が示されています。
 三成が当初から朝鮮出兵には反対していたことを示すものとして、オンライン三成会編「三成伝説」にも書かれていることですが、三成が嶋井宗室と図って秀吉に朝鮮出兵を思いとどまらせようと意見したという記述が享保年間に書かれた著述集「博多記」にあります。またこの後、朝鮮半島に渡った三成・大谷吉継・増田長盛たち三奉行が、戦いの様子をつぶさに見て、的確かつ冷静な戦況判断をした注進状(佐賀県立名護屋城博物館蔵)を書いています。前線で兵糧が不足しており、遼東や明に攻め入っても、釜山からの兵站を保つことが出来ず、このままでは局地戦には勝てても補給が続かずそのうちに日本人は一人もいなくなってしまうだろうから、戦線の拡大を図らず、すでに占領した地域の安定を重要視すべきだという内容です。実際、この後、三成たちの危惧する通り、明の大軍による逆襲が始まり、日本軍は戦線の後退を余儀なくされ、三成たちは一刻も早く和平を整えようと図ります。
 もっとも、文禄2年1月の碧蹄館の戦いで日本軍は勝利していますが、そこには三成の高い戦略眼があったことをオンライン三成会代表の中井俊一郎氏が指摘され、「三成伝説」にも書いておられます。小早川隆景たちは北方の開城(ケソン)で明軍を迎え撃つことを主張しましたが、三成は開城では補給を絶たれれば孤立すると反対し、結局は三成の意見通り漢城まで撤退し、日本軍を結集させた上で明軍を迎え撃つことに成功しました。
 ミュージカル「美しき生涯」で、文禄3年春に三成たちが和睦を進言しているというのは、時代考証的におかしいと云えます。文禄2年6月末に、大坂城にやって来た明の使者(三成たち三奉行や小西行長が一緒に渡海しました)に秀吉側から和議七ヶ条が提示(内容的には朝鮮や明が到底受け入れがたい内容でしたが)されており、三成・大谷吉継・増田長盛・小西行長が副署しています。4月の段階で、明が使者を派遣する条件に、日本軍の撤退が示されており、日本軍は漢城を引き払い、釜山に移っています。もっとも、和議七ヶ条が示される前後に、日本軍は第2次晋州城攻撃をしていますから、完全に停戦したわけではありませんが、文禄3年春は和議七ヶ条の返答待ちの状態であり、日本軍の数は大幅に縮小していました(駐留するために半島南部沿いに倭城を築城)から、こういう時期に和睦の話をもってくるというのは合いません。
 「美しき生涯」で、秀吉は加藤清正に生きた虎をつかまえて肝を送るようにという命令を、三成を通じて下しています。虎の肝は若返りの効能があるというわけであり、淀殿をもっとかわいがってやりたいということを述べて大笑いしますが、三成が無言であるのは、むろん、淀殿に対する思いがあるからという設定であり、内心の葛藤がここでも示されています。強壮の薬とするために、秀吉が諸将に虎刈りを命じ、秀吉がうんざりするほど虎が送られてきたと云われていますが、清正が朝鮮半島で退治したと伝わる虎の下顎の骨を、名古屋市秀吉清正記念館が所蔵しています。
 

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