日本文学探訪90 中島敦「山月記」2 理由もなく生きてゆくのがわれわれ生物の定め

李徴は虎に変身した時の様子を旧友に語ります。初めは自分の目を疑い、次に夢ではないかと思ったが、それが現実だと知った時、彼は茫然として深く恐れました。ここで李徴は自分の人生観、運命観を語ります。理由も分からずに押しつけられたものを受け取って、理由もなく生きてゆくのがわれわれ生物の定めだと言っているのですが、これは李徴ならずとも、人間がよく思うことです。
 私もこの年になっても、生きていることを不思議に思ったり、何のために生まれてきたのかなどと考えることがあると述べ、生徒たちもこういうことを考えたことがあるのかと尋ねたところ、考えたことがあると手を挙げたのは半数ぐらいでした。ほとんどの生徒が考えたことがあるように思っていた私には、意外な結果でした。死後のことを考えたことがあるかという問いには、さすがに大半の者が手を挙げていました。
 李徴はまた、人間でも獣でも元は何か他のものだったのだろうとも語り、輪廻転生的な考えも出しています。クラスの中に何人かは、輪廻転生を信じている者がいました。李徴の口から語られるこういう考え方は作者の人生観や運命観につながります。
 今は一日のうちで数時間しか人間の心には戻らず、大半は獣性に従って生きているのが李徴の状態ですが、彼は人間の心がなくなることをどうしようもなく恐ろしいと考えている一方で、完全に虎になり切ってしまえば、人の道に反したことをしても、倫理的な苦悩を感じずに済み、幸せになれると思っています。私はここのところで、認知症を例に挙げて、説明しました。自分の認知症の症状が進んでいることを意識するのも辛いものであり、完全にそういうことを意識しなくなった方が幸せかもしれません。しかし、そうなってしまえば、自分というものがなくなってしまうのですから、どちらがいいのか単純には割り切れない問題です。
 李徴は旧友に自分の作った詩を吟じて書き取ってもらいます。自分の詩を後世に伝えないでは死んでも死に切れないという思いです。その詩の格調は高雅で意趣ははるかに優れていましたが、旧友はその詩にどこか微妙な点において欠けている点があると気づきます。それがどういう点なのかは、その時は明らかにされませんが、この後で李徴の口から語られます。それは臆病な自尊心と尊大な羞恥心という彼の内面的な性格や、妻子のことを思いやる心の欠如であり、それが詩に反映しているというわけです。
 しかし、私はこの考えに疑問を呈し、芸術家の人となりと、その芸術は別個のものであり、性格が悪いからと言って、それが芸術作品に必ずしも反映しているとは言えないと述べました。その例として、「アマデウス」という映画で描かれたモーツァルトのことを出しました。下品で女性を追いまわす彼が、あれだけ純粋で美しい曲を作り上げていたという描き方でした。真面目で努力家の宮廷音楽家のサリエリは、モーツァルトの書いた楽譜を見てびっくりします。書き直した跡が全然なく、天才であることを示していたからです。だから、サリエリは余計にモーツァルトに嫉妬を燃やします。神は不公平であり、自分のような努力家に才能を持たせず、逆に彼のような下劣な男に天分を与えたと。むろん、モーツァルトの実像がこの映画で描かれた通りだとは限りませんが。
 

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