日本文学探訪91 中島敦「山月記」3 人間に戻れない悲しみを誰にも分かってもらえないという孤独感

 芸術とその人となりは別物だということを一昨日の拙ブログで述べましたが、それらが結びついている芸術家もいます。音楽家で云えば、ベートーベンがその代表的な人ではないでしょうか。耳が聞こえないという、音楽家にとって致命的な状況に追い込まれたにもかかわらず、苦悩の末に第九の「歓喜の歌」が生み出されたのであり、あの曲は彼の人生と切り離しては考えられません。また、作家では太宰治が破滅的な人生と作品が深く結びついています。しかし、太宰の人格が問題だからと言って、彼の文学が二流ということにはなりません。
 李徴は自分が虎に身を落としてしまったのは、自分の心の中に、臆病な自尊心と尊大な羞恥心があったためだと自己分析します。前者は自分に才能がないのではないかと惧れ、自分で努力したり磨いたりすることを怠るというもの、後者は自分の才能を信じるあまり、つまらない人と付き合うことをしないため、他人には尊大に見えながら、実際は羞恥心が心の中にあったというものです。
 ふてぶてしいように見えながら、実際はシャイな人である例として、かつての大相撲の大横綱だった北の湖のことを取り上げました。昔は、図々しいようなむつっとした印象を受けて、好きではありませんでしたが、実際は恥ずかしがりやだということが分かって、親しみを持てるようになったというような話をしました。
 李徴はと、才能や過去を空費してしまったという後悔の念を述べます。人間誰しも虎になったことがないので、こういう李徴の孤独感はなかなか理解できませんが、大病を患えば、これに似た気持ちを抱くということを、自分の体験談を交えて少ししゃべりました。
 若い時に白内障を患い目が次第に見えなくなって行く不安に駆られたこと、手術を受けてまた見えるようになったものの、さらにその後何年かして眼底出血をしたことなどです(今でも眼底出血の後遺症は残っており、片目は役に立ちません)。ガンになった人も、なぜ自分がという気持ちになると言いました(これは経験談ではありませんが)。過去を空費してしまったという後悔については、若い人には理解できないかもしれないけれど、大人になってから、若い時にもっと頑張っておけばよかったなどといろいろ悔いることが少なくないと述べました。
 李徴は最後に旧友に、妻子に自分は死んだと伝えてくれること、及び今後の妻子の面倒を見てくれることを頼みます。詩のことを先にして、妻子のことを後回しにしたことを自ら嘲って、これでは虎になるのも当然だと言います。
 彼は最後にもう一度姿を見せ、咆哮して姿を消します。これが旧友との永遠の別れとなりました。二人が出会った時は、月が出ていましたが、李徴が姿を消した時には、月は光を失っており、時間の経過を知らせると共に、月が次第に失われている彼の人間性を象徴してもいます。題名にも「月」が入っており、この小説において、月がちょっとしたキーワードになっていることが分かります。
 

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