日本文学探訪93 関根和美歌集「呂宋へ」の終章「右近百首」1 マニラ追放の高山右近の身になって

 日本歌人クラブの会誌「風」に関根和美歌集「呂宋へ」の書評が載っていました。飛高敬氏によるその書評で、関根氏がキリシタン武将であった高山右近を題材にした歌を詠み続けておられること、平成15年には「私の高山右近」という本を刊行されていること改めて知りました。
 「呂宋へ」は関根氏の四番目の歌集であり、ライフワークとして追求してきたキリシタン、特に高山右近理解の深化が最大限に発揮され、とりわけ終章「右近百首」は読む者の心にぐいぐいと食い込んでくると飛高敬氏は書いておられます。
 この「右近百首」はインターネットにも掲載されているのを見つけました。飛高敬氏の書評では最後の方の七首が引用されていますが、そのいくつかを紹介します。
 「戦世に功名あぐるをもとめねば追放の身を船に横たう」
 古典仮名遣いからすれば、「横たふ」でしょうが、関根氏は他の歌も現代仮名遣いで通しておられます。「右近百首
」は大半が高山右近の立場に立って詠むという設定がなされており、この歌の場合は右近がルソンに追放されて行く船中で詠んだことになっています。右近はもともと武将ですから、戦いで功名を立てるのが本分ですが、右近は信仰の道を選び、武将の身を捨てました。「船に横たう」というところに、その運命を甘受している潔さがうかがえる気がします。小西行長のように死ぬまで武将であったキリシタンもいましたが。
 高山右近が追放されたのは慶長19年(1614年)のことであり、マニラに着いたのは12月でした。しかし、翌年1月8日には亡くなりますから、マニラでの生活はごくわずかでした。豊臣氏が大坂夏の陣で滅びるのはその年の5月8日ですから、高山右近はそれを知ることはありませんでした。もっとも、左近にとっては、豊臣家がどうなろうと関係なかったかもしれませんが。
 「戦場に果つるべき身が南海の国に終はらむかくも静けく」
 ルソンは右近にとっては別天地であったに違いありません。戦いもなく平和な静かな国に来て安らかな気持ちになると同時に、武将を、そして祖国を捨てざるを得なくなったこと、日本の戦場ではなく、南海の地で命を終わることに対する右近の感慨がこもっている作品です。
 「雪のごと降る花もなく灼熱のハイビスカスの燃ゆる只なか」
 ハイビスカスの紅い花の色が鮮烈な印象を与えます。それと対比されているのが「雪のごと降る花」ですが、桜のことだと思われます。吹雪のように舞い散る花というものがルソンにはなく、日本との風土の違いが浮き彫りとなっている歌ですが、この歌の場合もやはり右近の目から見たという設定がされています。

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