日本文学探訪94 石田三成の実像728  関根和美歌集「呂宋へ」の終章「右近百首」2 26聖人殉教

 関根和美氏の「右近百首」は作者自身が右近の身になって、その気持ちを連作短歌に詠んでいますが、最後は作者の立場に戻ってその心情を歌にしています。
 「右近像ディラオの広場に立つと言う寄りゆくままに高鳴るこころ」
 「三成伝説」でも取り上げさせていただきました大阪カテドラル聖マリア大聖堂(関ヶ原の戦いの前、細川ガラシャが自刃した細川屋敷付近に建っている教会)にも高山右近の像が建っています(教会の入口右横に細川ガラシャ像、左横に高山右近像が建っています)が、ルソンの右近像とは微妙に違うのでしょうか。一度見てみたい像ですが、作者も本人に会うかのように像に近づくにつれて胸の高鳴りを覚えており、その心情は痛いほどわかります。
 「今の世に右近を恋う者おりますとマニラの空に放つ日本語」
 これは心の中で言ったのでしょうか、あるいは実際に声に出して言ったのでしょうか。「空に放つ」とありますから、後者ではないかと思われます。はるばるルソンまで右近を訪ねてゆき、右近の終焉の場となった地に立った深い感慨がよく表れています。
 私も石田三成を題材にした「無念、関ヶ原」を詠みましたし、それ以降も三成をテーマにした歌を詠み続けているだけに、関根氏の取り組みには大いに共感を覚えました。
 「三成伝説」の「山城・京」の章にも書かれていることであり、また拙ブログでも前に取り上げたことがあることですが、26聖人の殉教の際、三成は犠牲者の数をできるだけ減らそう(三成はできれば一人の逮捕者も出したくなかったと片岡千鶴子氏は述べておられます)としたり、捕らえられた24名の両耳と鼻を削ぐようにという秀吉の命令に対して、三成は左の耳たぶだけを切り落とすようにとどめたりしています。
 この事件に絡んで、高山右近と三成の近しい関係(間接的ではありますが)を示す北国新聞記事(2002年10月1日付け)がインターネットに出ています。秀吉の命により京のキリシタン名簿が作られ、その筆頭には高山右近の名が記されていましたが、三成はその名簿から右近を外しました。バテレン追放令で大名の地位を捨てた右近でしたが、やがて前田利家に引き取られ、北条攻めの際に右近は華々しい軍功を立てました。それ以降、右近は活動の拠点を金沢城から京に移しますが、それは利家が呼び寄せたものであり、右近は前田家の外交官としてうってつけだったに違いないと書かれています。
 キリシタン名簿が作らた際、右近も殉教を覚悟して伏見の利家屋敷を馬で訪ね、別れの挨拶をし、形見の茶壷を贈りましたが、利家は既に秀吉をなだめ、手を打っており、三成がキリシタン名簿から右近の名を削っていたことも利家は知っていたはずだと記事では述べられています。利家は家臣の前で右近の覚悟の見事さを褒めましたが、右近は主君の利家に感謝しながらも、殉教の機会を失った悲しさで胸中は複雑なものがあっただろうとも書かれています。

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