石田三成の実像738 今年の集中セミナー講座8 十三ケ条、九ケ条の掟書

 今改めて振り返ってみると、略年譜は、太田浩司氏の「近江の生んだ知将 石田三成」の年表の方をプリントに載せる方がよかったのではという思いを持ちます。最近の研究成果を反映しているからですし、またわかるものについては月日も載せてあるからですが、講座のプリントは7年前に担当した時から書き加えたり訂正したりしている部分はあるものの、ベースは同じものを使っています。
 三成は1596年、領内蔵入地、給人地(この違いについても言及したかったところですが、むろん、説明している時間はありませんでした。蔵入地は三成の直接支配する所領、給人地は三成家臣の所領)に十三ケ条、九ケ条の掟書、その翌年の1597年に領内麦掟を出していますが、この時代にこれだけ細かな詳しいものを出している(むろん、その中身に触れる余裕はありませんでしたが)のは珍しく、また領民に不満があれば申し出る権利を認めていることにも触れ、三成は善政を敷き、領民に慕われていたと説明しました。
 もっとも、講座では述べることができませんでしたが、太田浩司氏は「近江が生んだ知将 石田三成」の中で、三成が善政を敷いていたかどうかについては、掟書は必ずしも明確に語っていないと述べておられます。しかし、その一方で、三成が戦国時代に混乱していた租税体制を刷新し、「民」が取る分と「公」が取る分を明確に分け、「公」の収納に明確なルールを与え、「民」にとっての権利と義務を制度化し、新たな近世日本の国家像を造り上げ、その意味で「民」にとっての善政だったと云えるとも指摘しておられます。
 太田氏は九ケ条の掟書の第一、四、六条から百姓(農民)の耕作者としての権利を認め、彼らを年貢負担者として確定し、確実に年貢を収取するシステムを構築する意図が読み取れると述べておられます。
 こういう掟書の中身も生徒に配布したプリントに載せておけばよかったと、これも反省している点の一つです。講座で言及する時間がなくても、プリントに掲載しておけば、興味を持った生徒が後で見てくれるかもしれないからです。十三ケ条、九ケ条の掟書、麦掟は、全文が市立長浜城歴史博物館発行の図録「没後四百年特別展覧会 石田三成」に掲載されています。その文書はかな文字の比率が多い漢字・かな交じり文ですが、この点について、農民が理解できるようにとの配慮からかと太田氏は指摘しておられます。
 十三ケ条、九ケ条の掟書は内容的、形態的な相違はないものの、十三ケ条が夫役のかけ方を、千石に一人と石高を基準にしているのに対して、九ケ条の方は村の戸数を基準にしているため、冒頭にその村の家数が記されており、この掟書の発令が、戸口調査の役割も担っていることを示していると図録には解説されています。太田氏の「石田三成」の中では、村の戸数把握と村人の移動を禁止した掟書の条文は、豊臣政権の発令した「人掃令(ひとばらいれい)」を継承したものだと書かれています。
 
 
  
 
 

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