石田三成の実像754 中野等氏「文禄・慶長の役」2「石田三成の居所と行動」3 上陸前後
中野等氏は「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」の中で、秀吉が朝鮮半島上陸に先行する事前交渉を小西行長と宗義智に委ねており、事前交渉は3月中をめどとしており、それまでの軍令はいずれも対朝鮮交渉が順調に進むことを前提にしていたと論じておられます。
小西行長は事前交渉のため、名護屋をいち早く発し、3月12日(1592年)には対馬に入っているものの、この滞在はひと月に及んだと指摘されています。この間の直接的な史料はないものの、行長は書を託した景轍玄蘇を使者として朝鮮に派遣し、「仮途入明」(「仮道入明」)に向けた交渉を進めていたと考えられると述べておられます。「仮道入明」とは明に侵攻する日本の軍勢に道を貸すということで、きわめて独善的であるものの、軍勢を平和裏に上陸するための折衝と考えてよいと中野氏は書いておられます。釜山鎮僉使チョンバルはこれを無視し、かえって護りを固めましたが、これは当然の朝鮮側の反応だと云えます。
4月7日に、玄蘇が対馬に帰り、小西たちに朝鮮側の反応を伝え、12日には小西らの軍勢が対馬を発して朝鮮半島への上陸が開始されますが、この情報は対馬船奉行の脇坂安治によって注進され、秀吉は19日にこの報に接したとあります。秀吉はこのことによって、従前の「船奉行」の体制を解消し、新たに「警護衆」を組織するという軍令を発し、3月13日付の軍令は撤回され、朝鮮半島での戦闘を前提とする新たな軍令が発せられたと指摘しておられます。こういう細かな経緯は、私自身、知りませんでした。
この間の三成の動きについて、同じく中野等氏が「石田三成の居所と行動」の中に書いておられます。3月13日付けで発給された陣立書において三成は名護屋駐在の船奉行に任じられているとありますが、この陣立書の表が前にも触れたように、「文禄・慶長の役」の中で取り上げられています。
3月14日付の島津義弘宛て三成書状から同日までには三成が関戸に到着していると中野氏は指摘しておられます。三成が京を出陣したのは、「言経卿記」の記述から2月20日だと書かれています。3月29日付の三成書状で相良頼房に速やかな渡海を促していることからみて、この時までに三成が名護屋に到着したと考えられると中野氏は述べておられます。
三成は4月25日付の秀吉朱印状(この日に秀吉は名護屋に到着)に大谷吉継と共に早速取次として登場しており、さらに5月5日・6日と島津家の「御日記」に登場して、三成の名護屋在陣が確認されると書かれています。その後も三成は吉継・増田長盛・長束正家と共に秀吉の直状に取次として名が見えており、名護屋での在陣を続けていたとあります。三成たちが秀吉に代わり、名護屋を船出したのは6月6日のことですから、三成が渡海するまで名護屋に在陣したのは2ヶ月余りになります。
小西行長は事前交渉のため、名護屋をいち早く発し、3月12日(1592年)には対馬に入っているものの、この滞在はひと月に及んだと指摘されています。この間の直接的な史料はないものの、行長は書を託した景轍玄蘇を使者として朝鮮に派遣し、「仮途入明」(「仮道入明」)に向けた交渉を進めていたと考えられると述べておられます。「仮道入明」とは明に侵攻する日本の軍勢に道を貸すということで、きわめて独善的であるものの、軍勢を平和裏に上陸するための折衝と考えてよいと中野氏は書いておられます。釜山鎮僉使チョンバルはこれを無視し、かえって護りを固めましたが、これは当然の朝鮮側の反応だと云えます。
4月7日に、玄蘇が対馬に帰り、小西たちに朝鮮側の反応を伝え、12日には小西らの軍勢が対馬を発して朝鮮半島への上陸が開始されますが、この情報は対馬船奉行の脇坂安治によって注進され、秀吉は19日にこの報に接したとあります。秀吉はこのことによって、従前の「船奉行」の体制を解消し、新たに「警護衆」を組織するという軍令を発し、3月13日付の軍令は撤回され、朝鮮半島での戦闘を前提とする新たな軍令が発せられたと指摘しておられます。こういう細かな経緯は、私自身、知りませんでした。
この間の三成の動きについて、同じく中野等氏が「石田三成の居所と行動」の中に書いておられます。3月13日付けで発給された陣立書において三成は名護屋駐在の船奉行に任じられているとありますが、この陣立書の表が前にも触れたように、「文禄・慶長の役」の中で取り上げられています。
3月14日付の島津義弘宛て三成書状から同日までには三成が関戸に到着していると中野氏は指摘しておられます。三成が京を出陣したのは、「言経卿記」の記述から2月20日だと書かれています。3月29日付の三成書状で相良頼房に速やかな渡海を促していることからみて、この時までに三成が名護屋に到着したと考えられると中野氏は述べておられます。
三成は4月25日付の秀吉朱印状(この日に秀吉は名護屋に到着)に大谷吉継と共に早速取次として登場しており、さらに5月5日・6日と島津家の「御日記」に登場して、三成の名護屋在陣が確認されると書かれています。その後も三成は吉継・増田長盛・長束正家と共に秀吉の直状に取次として名が見えており、名護屋での在陣を続けていたとあります。三成たちが秀吉に代わり、名護屋を船出したのは6月6日のことですから、三成が渡海するまで名護屋に在陣したのは2ヶ月余りになります。
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