石田三成の実像758 中野等氏「石田三成の居所と行動」5「文禄・慶長の役」4
中野等氏の「文禄・慶長の役」には、6月28日、和議七ケ条(大明日本和平条件)を提示された明使が、同日名護屋を発ち、朝鮮半島に戻ることになると書かれています。帰還する使節一行には、答礼使に任じられた小西行長の家臣である内藤如安が同行したとも書かれています。笠谷和比古氏・黒田慶一氏「秀吉の野望と誤算」にも、秀吉側は内藤如安を答礼使に任命し、6月28日に明使と共に名護屋を発したと書かれています。
ところが、同じ中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、7月18日に三成が大谷吉継・小西行長と共に明使を伴い名護屋を発ち、釜山へ発向したと書かれています。出典は「薩藩旧記」です。こちらの方が中野氏の新たな見解というわけでしょうか。
もっとも、このうち小西行長の動向については、鳥津亮二氏の「小西行長の生涯と八代」には、7月上旬に釜山で行長が沈惟敬と会談を行ったと書かれていますから、行長が7月18日に名護屋を発ったのは本当なのかという印象を持ちます。むろん、小西行長が朝鮮半島を往復していたと考えられなくはありませんが、苦しい気がします。7月18日という記述が正しいのかどうか、三成の動向とも絡んで、今後の検討課題ではないでしょうか。
「石田三成の居所と行動」では、講和交渉にともなう撤兵計画に従って、三成も朝鮮半島から日本に帰還(それまで釜山で三成が諸将にさまざまな指示を与えているとの記載もあり)したと書かれています。三成が名護屋に着いたのは9月25日付けの書状から同日であり、翌26日には名護屋を発って上坂の予定であったとも書かれています。
さらに閏9月には大坂に到着していることが、一両日中に三成たちが着くとの閏9月13日付けの木下半介吉隆書状からうかがえるとあります。その後まもなく上洛したものと考えられると記されていますが、閏9月23日の「駒井日記」の記述が根拠になっており、9月30日付けの安宅秀安書状からも三成の在京が推定されています。
その撤兵計画ですが、中野氏の「文禄・慶長の役」には秀吉が、「高麗より帰朝人数渡海番折の事」を発して大量の軍勢を短期間に輸送するための組編成や帰還の順番を定めたと書かれており、それをまとめた表も記載されています。その表によると、三成は四番組で、人数は1640人であり、全体で49719人と書かれています。
その前に秀吉は朝鮮半島の沿岸部に倭城の普請を命じ、7月27日付けで対象となる城を指定した上、守備する人数など詳細に定めた目録を朝鮮在駐の大名たちに発していると「文禄・慶長の役」に書かれており、その倭城(仕置きの城)の名と城将の名を記した表も記載されています。倭城の警衛から外された諸将は朝鮮国にとどまる必要がなくなり、日本への帰還が具体化され、「高麗より帰朝人数渡海番折の事」につながるというわけです。
ところが、同じ中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、7月18日に三成が大谷吉継・小西行長と共に明使を伴い名護屋を発ち、釜山へ発向したと書かれています。出典は「薩藩旧記」です。こちらの方が中野氏の新たな見解というわけでしょうか。
もっとも、このうち小西行長の動向については、鳥津亮二氏の「小西行長の生涯と八代」には、7月上旬に釜山で行長が沈惟敬と会談を行ったと書かれていますから、行長が7月18日に名護屋を発ったのは本当なのかという印象を持ちます。むろん、小西行長が朝鮮半島を往復していたと考えられなくはありませんが、苦しい気がします。7月18日という記述が正しいのかどうか、三成の動向とも絡んで、今後の検討課題ではないでしょうか。
「石田三成の居所と行動」では、講和交渉にともなう撤兵計画に従って、三成も朝鮮半島から日本に帰還(それまで釜山で三成が諸将にさまざまな指示を与えているとの記載もあり)したと書かれています。三成が名護屋に着いたのは9月25日付けの書状から同日であり、翌26日には名護屋を発って上坂の予定であったとも書かれています。
さらに閏9月には大坂に到着していることが、一両日中に三成たちが着くとの閏9月13日付けの木下半介吉隆書状からうかがえるとあります。その後まもなく上洛したものと考えられると記されていますが、閏9月23日の「駒井日記」の記述が根拠になっており、9月30日付けの安宅秀安書状からも三成の在京が推定されています。
その撤兵計画ですが、中野氏の「文禄・慶長の役」には秀吉が、「高麗より帰朝人数渡海番折の事」を発して大量の軍勢を短期間に輸送するための組編成や帰還の順番を定めたと書かれており、それをまとめた表も記載されています。その表によると、三成は四番組で、人数は1640人であり、全体で49719人と書かれています。
その前に秀吉は朝鮮半島の沿岸部に倭城の普請を命じ、7月27日付けで対象となる城を指定した上、守備する人数など詳細に定めた目録を朝鮮在駐の大名たちに発していると「文禄・慶長の役」に書かれており、その倭城(仕置きの城)の名と城将の名を記した表も記載されています。倭城の警衛から外された諸将は朝鮮国にとどまる必要がなくなり、日本への帰還が具体化され、「高麗より帰朝人数渡海番折の事」につながるというわけです。
この記事へのコメント