石田三成の実像770  オンライン三成会編「三成伝説」新装版で訂正した箇所3 「島津義弘」の章2

 オンライン三成会編「三成伝説」新装版の「島津義弘」の章で、島津忠恒が老臣の伊集院忠恒の手討ちをした際の三成の対処の仕方や、家康によって調停工作がなされたことなど、詳しい説明を加えたかったのですが、前にも申しましたように、ページ数を増やすことは厳禁なので、断念しました。そのため、訂正箇所は非常に舌足らず的な表現になってしまったという気がしていますが、ご容赦ください。
 島津義弘が伏見城入城を家康から要請されていたという話も、「三成伝説」では否定的に書かせていただきました。島津家が積極的に西軍を指示していたのではないという言い訳に使われていた気がするというように。しかし、これは私自身、事実誤認していたところがあって、義弘が伏見城留守番を命じられたから兵を送ってほしいという国許の義久に送った義弘書状が実際残っており(「島津家文書」)、その書状については、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」でも取り上げられ論じられています。
 またその書では、義弘が生駒親正と思われる人物に宛てた書状案文も示されています(「島津家文書」)。すなわち、その書状案文には、家康から伏見城留守番を命じられ、正式に文書での家康からの命令を受領しようとしていたが、それが得られないまま家康が会津に出陣してしまったというようなことが書かれています。「関ヶ原 島津退き口」では、義弘が西軍に積極的に参加していたとする光成準治氏の見解に対して反論されてもいるのですが、それらのことを踏まえて「三成伝説」の「島津義弘」の中の文を次のように訂正しました。
 「島津義弘が伏見城入城を家康から要請されていたという話も、それが本当であれば、鳥居元忠が入城を拒むはずがない。家康との口約束であったという桐野作人の説もあるが、国許に西軍への軍事派遣要請をする方便として使われたとする光成準治氏の説もあり、この件は今後の検討課題である」と。
 「三成伝説」で、島津義弘が伏見城入城を家康から要請されていたという話も「本当かどうか怪しい話である」と書いていた「本当かどうか」云々の部分は削りました。もっとも、光成準司氏の説については、「西軍に積極的に参加させるために使われた方便であった」という表現にするべきであり、私の表現に不備があったと、反省しています。
 義弘が西軍に参加したのは、島津本宗家の家督を継いだ忠恒の夫人である亀寿(義久の三女)や義弘夫人が人質として取られていたことが大きかったし、また新納旅庵が義弘の命で大坂に下り、「秀頼様御為」の方途を探るうちに、西軍が大坂を占拠してしまったために、西軍に加わるという選択肢しかなかったと桐野氏は書いておられます。「三成伝説」では、義弘が西軍に参加したのは、三成との親しい関係や義弘夫人と亀寿姫が人質に取られていたこともあってというふうに書かせていただき、この部分は変更しませんでした。

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