石田三成の実像789 金子拓氏「記憶の歴史学」2 ガラシャに人質に出るよう直接要請したのは三成?
細川ガラシャ(玉子)自害から48年経って侍女の霜が記憶に基づいて記された「霜女覚書」ですが、当時の霜の年齢について、事件当時は「若くみつもっても10代後半としても、覚書を献上した正保5年には60代後半という年齢の老女である」と、金子拓氏の「記憶の歴史学」に書かれています。
この覚書は「石田三成による大坂城出頭命令から玉子の死までを克明に記したものであ」り、この覚書の釈文全文とそれぞれの要約も「記憶の歴史学」に載っています。
その覚書によれば、昨日も拙プログで述べたように、三成が人質をとろうとしているという噂を小笠原たちが玉子に伝えた慶長5年7月12日には、毛利輝元を大坂に迎える前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署状が出されており、人質作戦もその一環だと考えられます。
これも前述したように桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」には、この時期「三成は大坂に赴かず佐和山か伏見にいたと思われる」とあり、中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、慶長5年「7月29日、佐和山を出て、伏見城攻撃に参加。30日大坂入城」と書かれています。また相川司氏の「石田三成」には、「7月29日、佐和山城を出た三成は、味方の伏見城攻撃を督励後、大坂城に入る。前年閏3月の三成襲撃事件以来、離れて久しかった地である」とあります。
もし、それが事実であれば、「霜女覚書」で人質を出すことを命じたのはすべて三成になっているという記載が本当かどうか疑問になってきます。むろん、三成が大坂城に赴いていないとしても、三奉行の動きは三成と連動したものであるのは確かですし、人質作戦に三成の意向が働いていなかったというわけではありませんが、直接三成が動いているという記載は、すべてを三成のしわざだとする徳川史観が働いていると云えないでしょうか。
「霜女覚書」には、「三成は、日ごろ玉子のもとに出入りしている『ちょうごん』という尼を介し、玉子に人質に出るよう何度も申し入れたが、玉子はそれを拒否した。これに対して三成は(細川)忠興嫡男忠隆の室は宇喜多と姻戚(秀家室と忠隆室はともに前田利家の娘)であるため、宇喜多邸へ入ってもらえばいいからと譲歩した」が、「宇喜多秀家も三成の一味であるから、この申し入れも拒否した」とあります。
さらに「16日、三成より表向きの使者があり、玉子を人質に出すよう要請し、もし拒否すれば屋敷に押し入って連行するよう通達してきた」とも書かれています。16日は「内府ちかひの条々」が出された日の前日であり、この「覚書」の記載も、三成の仕業とする捉え方がなされているように思います。
細川ガラシャ(玉子)の自害を記すイエズス会側の唯一の同時代報告があることも「記憶の歴史学」の中で示されています。「キリスト教史家ヨハネス・ラウレスによれば」、それは「イエズス会士カルヴァリオが編纂した1600年10月25日付の年報書翰簡であ」り、その記載によると、彼女は「手づから頸を露わにし」、「一刀のもとに首は切り落とされた」とあり、胸を突かせたとする通説の自害の仕方とは違っています。
この覚書は「石田三成による大坂城出頭命令から玉子の死までを克明に記したものであ」り、この覚書の釈文全文とそれぞれの要約も「記憶の歴史学」に載っています。
その覚書によれば、昨日も拙プログで述べたように、三成が人質をとろうとしているという噂を小笠原たちが玉子に伝えた慶長5年7月12日には、毛利輝元を大坂に迎える前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署状が出されており、人質作戦もその一環だと考えられます。
これも前述したように桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」には、この時期「三成は大坂に赴かず佐和山か伏見にいたと思われる」とあり、中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、慶長5年「7月29日、佐和山を出て、伏見城攻撃に参加。30日大坂入城」と書かれています。また相川司氏の「石田三成」には、「7月29日、佐和山城を出た三成は、味方の伏見城攻撃を督励後、大坂城に入る。前年閏3月の三成襲撃事件以来、離れて久しかった地である」とあります。
もし、それが事実であれば、「霜女覚書」で人質を出すことを命じたのはすべて三成になっているという記載が本当かどうか疑問になってきます。むろん、三成が大坂城に赴いていないとしても、三奉行の動きは三成と連動したものであるのは確かですし、人質作戦に三成の意向が働いていなかったというわけではありませんが、直接三成が動いているという記載は、すべてを三成のしわざだとする徳川史観が働いていると云えないでしょうか。
「霜女覚書」には、「三成は、日ごろ玉子のもとに出入りしている『ちょうごん』という尼を介し、玉子に人質に出るよう何度も申し入れたが、玉子はそれを拒否した。これに対して三成は(細川)忠興嫡男忠隆の室は宇喜多と姻戚(秀家室と忠隆室はともに前田利家の娘)であるため、宇喜多邸へ入ってもらえばいいからと譲歩した」が、「宇喜多秀家も三成の一味であるから、この申し入れも拒否した」とあります。
さらに「16日、三成より表向きの使者があり、玉子を人質に出すよう要請し、もし拒否すれば屋敷に押し入って連行するよう通達してきた」とも書かれています。16日は「内府ちかひの条々」が出された日の前日であり、この「覚書」の記載も、三成の仕業とする捉え方がなされているように思います。
細川ガラシャ(玉子)の自害を記すイエズス会側の唯一の同時代報告があることも「記憶の歴史学」の中で示されています。「キリスト教史家ヨハネス・ラウレスによれば」、それは「イエズス会士カルヴァリオが編纂した1600年10月25日付の年報書翰簡であ」り、その記載によると、彼女は「手づから頸を露わにし」、「一刀のもとに首は切り落とされた」とあり、胸を突かせたとする通説の自害の仕方とは違っています。
この記事へのコメント