大河ドラマ探訪122 「平清盛」13 第14回「家盛決起」2 義朝と由良御前の結婚の意図

 大河ドラマ「平清盛」第14回「家盛決起」で描かれていた藤原頼長と平家盛の男色関係は創作でしょうが、頼長が源為義の嫡子である義賢と男色関係にあり、また為義・義賢が頼長に厚遇されていたことが野口実氏の「武門源氏の血脈」に書かれています。
 「淀川河口に位置する摂津国大物浦は、いわば畿内全体の外港としての機能を担う港湾であったが、為義はここに『旅亭』を有して」おり、「為義がこの地に進出することができたのも摂関家・頼長の意向に基づくものであった」と「武門源氏の血脈」にあります。これは注によれば、元木泰雄氏の「保元の乱における河内源氏」の論考によるものです。
 さらに、「義賢が頼長と男色関係にあったことはよく知られているが、この義賢は康治2年(1143年)、頼長から能登国に所在する荘園の預所職(あずかりどころしき)を与えられている」とあり、「久安3年(1147年)6月、義賢は年貢の不納のためにこの職を罷免されるが、そうでなければこの荘園は河内源氏の北陸進出あるいは日本海流通支配の拠点となるべきところであっただろう」と論じられています。
 ドラマで藤原頼長が鳥羽院や藤原得子に対して無礼な言い方をするところ(激しい気性を強調したいという意図はわかりますが)や、頼長の父親である忠実も鳥羽院に対して、「われらの進言をお聞き入れにならず」などと、批判の言葉を口にするところはどうかと思いました。
 学研ムック「平清盛」の「清盛関連人物事典」では、忠実が「娘の泰子を鳥羽院の女御とするなど鳥羽と親密な関係を築いた」と書かれています。白河院の時代は忠実は白河院の要求を拒否して、「逼塞をよぎなくされたが、鳥羽院政になって復活」ともあります。しかし、良好な関係では、ドラマにならないというわけでしょうか。
 またドラマでは、久安3年(1147年)源為義が頼長の警護を義朝に命じたとき、義朝は自分は鳥羽院に仕える身だからそれはできないと拒否したのに対して、義朝の正室の由良御前が為義の仰せに従うべきだと述べていました。彼女は自分の役目が朝廷のこと、公卿方のことを夫に教えることにあるという趣旨の言い方もしていました。
 このドラマでは、院と摂関家との対立のような構図で描かれているきらいがありますが、由良御前が摂関家側の立場であるというような捉え方をしているのも気になりました。由良御前の父親について、学研ムック「平清盛」の「清盛関連人物事典」の「由良御前」の中で、「鳥羽院政と緊密な関係を築いた」と書かれています。同じ「人物事典」の「源義朝」の中には、「鳥羽院政の中枢との接近をはかって」、「由良御前と結婚」とあります。
 また元木泰雄氏の「河内源氏」には「義朝は久安3年に待賢門院側近である熱田大宮司家の藤原季範の娘(由良御前)との間に頼朝をもうけており、すでに院近臣との接点を有していた」と書かれています。

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