大河ドラマ探訪129 京都探訪79 「平清盛」19 待賢門院と「法金剛院」・崇徳不倫の子否定論
写真は満開の法金剛院のしだれ桜を4月13日に撮ったものです。待賢門院桜と呼ばれていますが、法金剛院は待賢門院が復興(双丘寺《ならびのおかでら》・天安寺と推移)した寺であり、大河ドラマの第12回「清盛紀行」でも紹介されていました。私が法金剛院を訪ねるのは2度目ですが、最初は十数年前のことであり、桜の季節は過ぎていましたから、初めて法金剛院の満開の桜を見ることができました。庭園は待賢門院が極楽浄土として造園させた「池泉廻遊式浄土庭園」であり、平安時代のものです。
待賢門院が法金剛院を建立したのは大治5年(1130年)のことであり、白河法皇崩御の翌年です。待賢門院
が出家したのは永治2年(1142年)ですが、藤原得子(美福門院)を呪詛したという疑いをかけられて出家を余儀なくされました(呪詛のことは大河ドラマ「平清盛」でも描かれていました)。法金剛院で余生を過ごしていた待賢門院が亡くなったのは、久安元年(1145年)であり、45歳でした。
大河ドラマでは、待賢門院は人を愛する気持ちがよくわからず、白河法皇の言うがままにしただけで、それで不倫の子の崇徳帝(院)を産んだという描き方がされていました。しかし、拙ブログで前にも取り上げたように、最近の研究では崇徳が白河法皇の子だという説は否定的に捉えられています。
岩田慎平氏の「乱世に挑戦した男 平清盛」では、鳥羽院が 崇徳のことを「叔父子」と嫌っていたとする「古事談」にある記述は、「後世の俗説」だと論じておられます。それは「鳥羽院が生前から崇徳を『叔父子』として遠ざけていたという徴証が同時代史料からは見出せない」からです。
一方、元木泰雄氏の「平清盛と後白河院」でも、白河院と待賢門院との関係については、「古事談」以外には根拠がなく、「鳥羽と崇徳の関係もさほど、険悪なものではなく、崇徳の皇子重仁も最後まで皇位継承の有力候補だったことを考えれば、鳥羽が崇徳を忌避していたとは考え難い」と書かれており、「『古事談』の説話は、崇徳院を排除しようとした美福門院・忠通らが流した虚構を、重病で正常な判断力を失った鳥羽院が信じたことを物語るものと見られる」という見解が示されています。
もっとも、元木氏は「待賢門院が多情であり、このために関白藤原忠実が息子忠通との縁談を拒絶したほどである」とも書いておられます。
ドラマでは、佐藤義清(西行)が待賢門院に愛の心を目覚めさせるものの、待賢門院が愛しているのは実は鳥羽院だと気づき、義清が逆上し、それがきっかけとなって義清が出家する展開になっていましたが、いかにも作り事めいた描き方でした。
待賢門院が法金剛院を建立したのは大治5年(1130年)のことであり、白河法皇崩御の翌年です。待賢門院
が出家したのは永治2年(1142年)ですが、藤原得子(美福門院)を呪詛したという疑いをかけられて出家を余儀なくされました(呪詛のことは大河ドラマ「平清盛」でも描かれていました)。法金剛院で余生を過ごしていた待賢門院が亡くなったのは、久安元年(1145年)であり、45歳でした。
大河ドラマでは、待賢門院は人を愛する気持ちがよくわからず、白河法皇の言うがままにしただけで、それで不倫の子の崇徳帝(院)を産んだという描き方がされていました。しかし、拙ブログで前にも取り上げたように、最近の研究では崇徳が白河法皇の子だという説は否定的に捉えられています。
岩田慎平氏の「乱世に挑戦した男 平清盛」では、鳥羽院が 崇徳のことを「叔父子」と嫌っていたとする「古事談」にある記述は、「後世の俗説」だと論じておられます。それは「鳥羽院が生前から崇徳を『叔父子』として遠ざけていたという徴証が同時代史料からは見出せない」からです。
一方、元木泰雄氏の「平清盛と後白河院」でも、白河院と待賢門院との関係については、「古事談」以外には根拠がなく、「鳥羽と崇徳の関係もさほど、険悪なものではなく、崇徳の皇子重仁も最後まで皇位継承の有力候補だったことを考えれば、鳥羽が崇徳を忌避していたとは考え難い」と書かれており、「『古事談』の説話は、崇徳院を排除しようとした美福門院・忠通らが流した虚構を、重病で正常な判断力を失った鳥羽院が信じたことを物語るものと見られる」という見解が示されています。
もっとも、元木氏は「待賢門院が多情であり、このために関白藤原忠実が息子忠通との縁談を拒絶したほどである」とも書いておられます。
ドラマでは、佐藤義清(西行)が待賢門院に愛の心を目覚めさせるものの、待賢門院が愛しているのは実は鳥羽院だと気づき、義清が逆上し、それがきっかけとなって義清が出家する展開になっていましたが、いかにも作り事めいた描き方でした。
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