大河ドラマ探訪130 「平清盛」20 平氏を滅ぼさないために忠正が崇徳側につく? 

 大河ドラマ「平清盛」では、保元の乱の際、清盛の叔父の忠正が崇徳上皇側についたのは、清盛の意に反したからではなく、頼盛が清盛に反旗を翻して崇徳側につくのをやめさせようとして、自分がその役を進んで買って出るという流れになっていました。ドラマではもともと忠正は清盛には「もののけ」の血が流れており、平氏の災いのもとだとして、清盛を嫌うという設定が最初の方でされていましたから、それが伏線になっているのかと思っていたのですが、そうではなく、平氏が滅び去ってしまうことを防ぐために、敢えて敵方につくという描き方でした。
 もっとも、これはドラマ上の脚色であって、この忠正の動きについて、岩田慎平氏の「平清盛」では、「家長の教令権の及ぶ範囲とかかわってくる」と書かれています。すなわち、「一般に、教令権は自らの息子たちにより強く左右するから、平忠正が伊勢平氏一門のなかで唯一上皇方についたのは、兄・忠盛の妻である池禅尼の権威からは自立しており、また、家督とはいえ甥にあたる清盛の教令権を相対化しえたからであろう。」と。
 また、元木泰雄氏の「河内源氏」では、忠正と摂関家との主従関係が指摘されています。すなわち、「忠正は、宇治にも居館を有するなど、早くから忠実・頼長に近侍して」おり、忠正は「頼長に近侍して宇治から同道し」「崇徳が籠もる白河殿に参入」したと書かれています。伊勢平氏の傍流であり、「崇徳が皇太子のころから侍として仕えた」平正弘も白河殿に参入したことも書かれています。
 忠正が摂関家との結びつきを深めていったことについては、武光誠氏の「平清盛」にも書かれています。すなわち、「藤原忠実、頼長の父子は院のものとは別の自家独自の武力の育成をもくろ」み、「朝廷で不遇な立場にあった」「清和源氏の源為義や、平忠正に声をかけて、摂関家の警備を委ねた」とあり、忠正は「兄(忠盛)とそりが合わず、鳥羽院から遠ざけられて良い地位につけなかった」とも書かれています。
 清盛が保元の乱に関してなかなか態度を決めなかったというのはドラマで描かれた通りですが、それを恩賞の値をつり上げようとしていたからであるという見方はどうでしょう。この件について、武光氏は「清盛は皇室が二つに割れて武力衝突する事態を苦々しく思っていたのではあるまいか。」と書き、「このことが保元の乱における、平清盛の消極的な戦い方につながった」と指摘しておられます。
 大河ドラマでも、清盛は鳥羽院と崇徳院との融和をはかろうと努めていましたし、その点は評価できますが、鳥羽院が崩御した時、崇徳院が鳥羽院の死に目に会おうとしたにもかかわらず、それを阻止したのはなんと清盛でした。この豹変ぶりはあんまりだという気がしました(一応、清盛は自分には守るべきものがあるという理屈をつけて情を捨てたという形にはしていましたが)し、史実としてもおかしい描き方でした。元木泰雄氏の「河内源氏」には、「7月2日に鳥羽院が死去した際、葬儀に清盛や平氏一門の姿はなかった」とあり、「清盛は、亡き父忠盛の正室藤原宗子(池禅尼)が崇徳の皇子重仁の乳母だったために警戒された」と書かれています。宗子が重仁の乳母であったという点は、ドラマでは全く抜け落ちています。
 
 
 

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