石田三成の実像826 「春季堺文化財特別公開」9 堺奉行所跡・琉球と島津氏と小西立佐と三成
堺奉行所跡の説明掲示板を5月26日に撮ったものです。以前、拙ブログで取り上げた時は、落剥していてひどい状態でしたが、すっかり新しいものになっていました。説明文には、三成や小西立佐(行長の父)が堺奉行を務めていたことは触れられていません。豊臣時代の堺奉行所の位置は江戸時代とは違っていたかもしれません(天白稲荷神社は三成の時代から江戸時代にかけてずっと奉行所内にありましたから、大きく位置が変わったわけではないと思われますが)から、無理ないこととは云え、少々寂しい気がしました。
奉行所の絵図は文政時代のものに基づいていますが、天白稲荷神社(三成が奉行所内に勧請したものです)は江戸時代、「奉行屋敷の奥向庭園にあって」と「堺市史」に記載されていますので、この絵図で云えば、南の池の奥にある丸い部分がその神社ではないでしょうか。明治になって堺奉行所跡に堺市役所が建てられましたが、天白稲荷神社はその西南隅にあったと「堺市史」には記されています。
小西立佐宛秀吉朱印状の中に、三成の名が見えるものが、鳥津亮二氏の「小西行長 史料で読む戦国史」で取り上げられています。すなわち、「琉球の使者に渡す銀子100枚を石田治部少輔(三成)に渡すように秀吉から命じられ」たものであり、「立佐が財政出納管理の役割を担っていたことをうかがわせる」と書かれています。
この秀吉朱印状は天正20年(1592年)3月14日付のものですが、「同じく琉球の使者に対して銀子100枚の下賜を命じる同日付の島津義久宛秀吉朱印状があ」り、「この時期、秀吉は琉球国の軍事編成について島津氏を介して駆け引きを行って」いるとも書かれています。
三成が島津氏の取次をしていたこともわかりますが、立佐が財政的な役割を果たしていたという点については、フロイスの「日本史」に頻出する「ジュウチン立佐と称する財務長官」という記述や、秀吉が名護屋に下向する際、立佐が「出納長官」「財産管理者」に任命されたという記述には相当の信憑性があると鳥津氏は指摘しておられます。
この秀吉朱印状の出された前日に、高麗渡海陣立書が発令されていますし、行長たち第一軍は12日に対馬に渡っていました。朝鮮侵略が開始されるのは4月12日です。
琉球のことで云えば、中野等氏の「石田三成の居所と行動」の天正16年の欄に、「11月、三成は琉球への使者派遣の件で(島津)義弘を促す」とあります。この三成の行動はむろん、秀吉の意向を受けてのものですが、秀吉が琉球に対して服属要求を行っていたことがわかる確実な史料として、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」には、天正16年8月12日付の琉球の中山(ちゅうざん)王に充てられた島津義久の書状案があげられています。すなわち、琉球に対して今まで秀吉に拝礼するように促してきたにもかかわらず、それを行わないという無礼を働いていること、ただちに琉球を討伐すべきところ、長年の薩摩と琉球の関係を考えるとそれも憚られるので、義久としてすぐに使節派遣を求めるというような内容です。
「天正17年の夏には、琉球国王が島津氏の薦めによって、使節を派遣し、秀吉の統一事業を慶賀している」と中野氏の「文禄・慶長の役」に書かれています。
奉行所の絵図は文政時代のものに基づいていますが、天白稲荷神社(三成が奉行所内に勧請したものです)は江戸時代、「奉行屋敷の奥向庭園にあって」と「堺市史」に記載されていますので、この絵図で云えば、南の池の奥にある丸い部分がその神社ではないでしょうか。明治になって堺奉行所跡に堺市役所が建てられましたが、天白稲荷神社はその西南隅にあったと「堺市史」には記されています。
小西立佐宛秀吉朱印状の中に、三成の名が見えるものが、鳥津亮二氏の「小西行長 史料で読む戦国史」で取り上げられています。すなわち、「琉球の使者に渡す銀子100枚を石田治部少輔(三成)に渡すように秀吉から命じられ」たものであり、「立佐が財政出納管理の役割を担っていたことをうかがわせる」と書かれています。
この秀吉朱印状は天正20年(1592年)3月14日付のものですが、「同じく琉球の使者に対して銀子100枚の下賜を命じる同日付の島津義久宛秀吉朱印状があ」り、「この時期、秀吉は琉球国の軍事編成について島津氏を介して駆け引きを行って」いるとも書かれています。
三成が島津氏の取次をしていたこともわかりますが、立佐が財政的な役割を果たしていたという点については、フロイスの「日本史」に頻出する「ジュウチン立佐と称する財務長官」という記述や、秀吉が名護屋に下向する際、立佐が「出納長官」「財産管理者」に任命されたという記述には相当の信憑性があると鳥津氏は指摘しておられます。
この秀吉朱印状の出された前日に、高麗渡海陣立書が発令されていますし、行長たち第一軍は12日に対馬に渡っていました。朝鮮侵略が開始されるのは4月12日です。
琉球のことで云えば、中野等氏の「石田三成の居所と行動」の天正16年の欄に、「11月、三成は琉球への使者派遣の件で(島津)義弘を促す」とあります。この三成の行動はむろん、秀吉の意向を受けてのものですが、秀吉が琉球に対して服属要求を行っていたことがわかる確実な史料として、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」には、天正16年8月12日付の琉球の中山(ちゅうざん)王に充てられた島津義久の書状案があげられています。すなわち、琉球に対して今まで秀吉に拝礼するように促してきたにもかかわらず、それを行わないという無礼を働いていること、ただちに琉球を討伐すべきところ、長年の薩摩と琉球の関係を考えるとそれも憚られるので、義久としてすぐに使節派遣を求めるというような内容です。
「天正17年の夏には、琉球国王が島津氏の薦めによって、使節を派遣し、秀吉の統一事業を慶賀している」と中野氏の「文禄・慶長の役」に書かれています。
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