大河ドラマ探訪140 「平清盛」30 源義朝の最期・頼朝の命が助かったのは?

 大河ドラマ「平清盛」第28回「友の子、友の妻」は、源義朝の最期、及び平治の乱の関係者の処分などの話が中心でした。
 義朝が戦いに敗れて逃げる途中、頼朝がはぐれたというのは事実ですが、「平治物語」では2度はぐれたことになっています。その「平治物語」では、逃避行の大変さを示すものとして、吹雪や降り積もった雪が出ていますが、大河ドラマでもそういう季節感を出して臨場感あふれる場面にすればよかったのではないでしょうか。
 もっとも、義朝の敗北後の行動や、逃走ルートについては、「愚管抄」に「義朝は馬にも乗らず、徒歩裸足で尾張まで逃げてゆく」とあるぐらいで、「平治物語」の記述によらざるをえず、それが事実であるか確かめようがないと野口実氏の「武門源氏の血脈」の中で述べられています。
  義朝の最期については、大河ドラマでは「平治物語」と「愚管抄」の記述とはまた違った演出がされていました。「平治物語」では義朝は泊めてもらった長田忠致の裏切りに遭い、湯殿の口で3人に襲われ殺され、鎌田正清もその後すぐに殺されるという描き方です(異本もありますが)。「愚管抄」では、義朝がまず自分の首を鎌田に打ち落とさせて、鎌田も続いて自害するというものでした。大河ドラマでは互いに刺し違えていました。
 信頼が処刑されたことについて、「信西殺害・三条殿襲撃の首謀者であり、最後まで武装して参戦していことから、戦闘員とみなされ処刑された」と岩田慎平氏の「平清盛」に書かれており、また元木泰雄氏の「平清盛と後白河院」でも、信頼が「重大事件の首謀者であり、また武人であることと見られたことが、死刑の背景であろう」と書かれています。武士の裁断で公卿が処分される時代に変わったという大河ドラマの見方とは違った点が指摘されているわけですが、大河ドラマでは終始、貴族対武士という古い構図が踏襲された描き方がされています。
 頼朝は清盛の継母である池禅尼の嘆願で命が助かったという点について、大河ドラマでは「平治物語」の記述にある、頼朝が池禅尼の亡くなった息子の家盛の姿によく似ていたからだという理由付けが使われていました。もっとも、大河ドラマでは池禅尼がこう言ったのは、頼朝の命を本当は助けたいという清盛の気持ちを慮ったからだという捉え方がされていました。今回のドラマの題名でもわかるように、清盛と義朝は親友という捉え方がされていますから、その線上に、対決した敗者の義朝の命を助けて逃がしたこと、また友の子である頼朝の命を助けるということがあるというわけですが、こういう設定自身が、ドラマの幅を狭くしている気がします。
 池禅尼が頼朝の助命嘆願をしたことについては、上杉和彦氏の「日本史リブレット人 平清盛」では、「それが事実ならば、清盛には父の正室とその実子をはばかる思いが強かったといえるのではないだろうか」と書かれています。
 一方、岩田氏の「平清盛」では、「この背景には、頼朝が上西門院の蔵人を務めていたため、上西門院とその近臣・熱田大宮司家(頼朝の母の実家)が、同じく後白河・上西門院と縁の深い池禅尼に働きかけた可能性が考えられる」と指摘されていますし、元木氏の「平清盛と後白河院」でも、「助命の裏には、頼朝が側近とした仕えた後白河院や、院の同母姉上西門院の働きかけがあったと考えられる」と書かれています。
 

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