大河ドラマ探訪146 「八重の桜」1 「歴史秘話ヒストリア」「歴史街道」スペンサー銃・吉田松陰年譜 

 大河ドラマ「八重の桜」の第1回「ならぬことはならぬ」の放送に続いて、「歴史秘話ヒストリア」で「『ハンサムウーマン』がゆく 新島八重 不屈の会津魂」と題する番組が放送され、八重の生涯がコンパクトにまとめられていました。「ハンサムウーマン」というのは、新島襄がアメリカの友人(ハーディー夫人)に書き送った手紙の中で、妻の八重について「彼女は決して美しくありません。しかし生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と記しているところに由来するものだと紹介されていました。
 大河ドラマの冒頭はアメリカの南北戦争の場面から始まり、それと交錯する形で1868年8月の会津・鶴ヶ城でヒロインの八重がスペンサー銃を構えて新政府軍相手に戦う場面が入り、南北戦争で使われた武器が日本に入り込み、幕末の歴史を動かしてゆくというふうに語られていました。1865年に新島襄がボストンにいる場面も入り、演出に工夫が見られました。
 「歴史街道 平成25年2月号」の中の「総力特集 八重と幕末会津」で「籠城戦の両軍主力兵器」が取り上げられ、スペンサー銃の写真と説明も載っています。「レバーアクションで、7発の銃弾を連発できた」こと、「幕末の日本には4700挺以上が輸入されて」いたこと、「会津藩が所有していた数は少ないが、会津藩砲術師範・山本家の娘である八重はこの銃を手に新政府軍に抗戦、北出丸に来襲した新政府軍を狙撃した」ことなどが記されています。
 大河ドラマで主人公と歴史上の人物とを絡ませるのは常套手段ですが、「八重の桜」でも、嘉永4年(1851年)八重5歳(ドラマでは満年齢で数えているようで、ホームぺージにもそれで表示されています。数え年だと7歳になります。)の時に、「追鳥狩」で西郷頼母の邪魔をして罰せられるところを、松平容保に助けられる場面が用意されていましたし、翌嘉永5年1月に、八重が吉田松陰に出会う場面も設けられていました。
 吉田松陰が会津に来たのは事実ですが、この前後の松陰の動きを海原徹氏の「吉田松陰に学ぶ」の「吉田松陰年譜」によって見てみると、「嘉永4年3月5日、藩主の参勤交代に従い江戸へ上る。安積艮斎、古賀茶渓、山鹿素水、佐久間象山らに従学する。6月 宮部鼎蔵と相模、安房の沿岸防備を踏査。12月14日 過書を持たず藩邸を出奔、松野他三郎と変名し、12月19日 水戸城下に入る。嘉永5年1月20日 水戸を発ち、白河、会津、新潟を経て佐渡に渡る。日本海側を北上し、秋田、弘前を経て小泊着。青森、盛岡、仙台、米沢を南下して、4月5日 江戸着。5月10日 藩邸へ自首」とあります。
 過書は通行手形であり、松陰は脱藩の罪を問われて嘉永5年「12月9日 士籍削除」の処分を受けます。大河ドラマでは会津に来た時、吉田寅次郎と名乗っていましたが、寅次郎と名乗ったのは、年譜によれば、嘉永6年1月以降のことで、会津に来た時は変名を用いなかったとするなら、姓名は吉田大次郎になります。

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