大河ドラマ探訪160 「八重の桜」16・ 第7回「将軍の首」2 文久2年の京の天誅の嵐・容保の入京

 大河ドラマ「八重の桜」の第7回「将軍の首」の冒頭で、文久2年秋に京都で天誅の嵐が吹き荒れていたことが示されていました。すなわち、閏8月20日に越後藩士、本間精一郎、22日に九条家家臣、宇郷玄蕃頭、29日に目明かし文吉、9月23日に京都町奉行所4名が暗殺されたと。半藤一利氏の幕末史」(新潮文庫)には、それぞれについて少し説明が加えられています。
 本間精一郎は攘夷論者でしたが、「いつの間にか公家につけいって金を集めるようになったのは裏切り行為であるとして惨殺されます」が、「田中新兵衛と岡田以蔵が乗り込んで叩き斬ったとされ」ると記されています。
 宇郷玄蕃頭は「開国論者であった」ために「惨殺され」、目明かし文吉は「安政の大獄でやたらに攘夷論者をしょっ引いた」ために「絞殺され」ましたが、文吉は「徹底的に憎まれたようで、多数の希望者の中からクジで、岡田以蔵ほか二名が当ったといわれて」いると記されています。また京都町奉行所の与力同心4名は「安政の大獄で『鬼』と呼ばれていた」との記載があります。
 大河ドラマでは触れられていませんでしたが、11月15日(すでに季節は冬になっています)、村山たかが「晒し者となり」、「公武合体派であった村山たかの息子多田帯刀が殺され」ました。村山たかは「長野主膳の妾で」あり、長野主膳は「井伊直弼の懐刀で」したが、8月27日、長野は「藩命により斬首され、大いに反省した彦根藩はがらりと攘夷に転じ」たと「幕末史」には記されています。
 大河ドラマ「第6回「会津の決意」では、容保の京都守護職就任に反対した西郷頼母が、彦根藩は桜田門外の変の後、10万石の減封処分になり、井伊掃部頭(直弼)は死に損だった、殿は会津藩に彦根藩と同じ道をだとらせるおつもりなのかなどと諌言していましたが、その心配は後に現実のものとなります。
 さらに「幕末史」には、「12月18日には、穏健派である知恩院宮家の臣深尾式部が惨殺され、「京都は『テロは正義なり』の様相で」あり、その頃「黒幕としてテロの指揮をとったのが、土佐の武市半平太(瑞山)」だったと指摘されています。武市は大河ドラマ「龍馬伝」で、大いなる存在感を示していました。
 このような不穏な状況の京都に乗り込んできたのが、京都守護職の松平容保でした。星亮一氏の「幕末の会津藩」では、京都守護職に要する莫大な費用のことが触れられています。すなわち、「問題は守護職守護職に伴う諸費用であ」り、「京都の経費として年間約10万両が見込まれ」、「就任に当たって金額にして約6万両の加増となったが、それでは足りず、問題を抱えての出立だった」と記されています。
 12月24日、容保一行が三条大橋を渡って入京するところもドラマでは描かれていました。この点について、「幕末の会津藩」には、広沢の手記が引用されていますが、「公は馬に揺られ、従者が前後に行列を正し、一里余にわたる。」とあり、藩祖保科正之にならって、「参内傘の形に擬した馬印を」「儀列に加え」、王朝を尊重する志を継いだことが記されています。行列が4キロ余りにわたって続いたということについては、「八重の桜紀行」で触れられていました。

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