石田三成の実像994 平野鳥居前町の「御土居」と石仏・御土居堀が作られた時期・三成の動向

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 写真は京都市北区平野鳥居前町にある「御土居」を一昨日に撮ったものです。ここを撮った写真が、オンライン三成会編「三成伝説」の「山城・京」の章に掲載されています。
 この場所は、北野天満宮の北側の出入口を出て、北に通じている道を入ってすこし北に歩いたところにあります。「三成伝説」では、秀吉の京都改造の一つとして、「御土居堀(おどいほり)の築造」が挙げられ、「町全体を堀と城壁、つまり御土居で囲む。御土居堀は、外敵からの防衛や御土居堀内(洛中)の治安維持を目的としたが、鴨川の氾濫から洛中を守る堤防の役割も大きかった」と記されています。
 上の写真に、石仏が写っていますが、中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター)には「御土居堀跡を歩くと、その遺跡地付近で、まとまった量の石仏に出合うことがある」とあり、その例にここの石仏が挙げられています。「当時は城郭建設に石仏や墓石などを転用するのが一般的であったらしい」ことからみると、「土塁(御土居)の出土石仏も、構築当初に納入された可能性があるといえるが、年代が不明なので議論ができず残念である」と記されています。
 御土居堀が作られた時期については、中村氏の「御土居堀ものがたり」には、天正19年(1591)「閏1月に開始して、2月に過半ができた」という公家近衛信尹(のぶただ)が書いた覚書、「3月6日、秀吉が北野天満宮のすぐそばの高橋(寺之内橋)を通り、『大堀』となった紙屋川を見に来ている」ことが記載されている「北野社家日記」、「大略できたらしい」と「伝聞が述べられている」「浅野長吉(長政)の4月25日付の書状」(滝川文書)が取り上げられ、「約20キロメートル以上の構築物を2カ月、多く見積もっても4カ月でつくった」と指摘されています。
 藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(「織豊期主要人物居所集成」所収)には、天正19年3月「6日、京都在」とあり、その典拠は「北野社家日記」となっています。また相田文三氏の「浅野長政の居所と行動」(「織豊期主要人物居所集成」所収)には、4月25日付の書状や同日の居所は記されていませんが、4月「18日二本松在」、「26日二本松在」とあり、やはり二本松で書いたものだと推定できます。
 このあたりの三成については、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(「織豊期主要人物居所集成」所収)には、一揆鎮圧に赴いていた奥州から戻り、天正19年「『時慶』2月15日条に、『石田治部少輔本門へ一礼アリ』とあり、2月中旬までには帰京していたようである。4月中旬秀吉の大津行きに従ったようであ」ると記されています。3月6日、三成が秀吉に同行した可能性もあり、御土居堀工事に直接関わらなかったにしても、完成を間近に見ていたかもしれません。三成が京都所司代に任じられたのは文禄4年(1595)のことであり、御土居堀完成から4年後のことです。もっとも、三成はその後も京都のことだけでなく、国家運営に大きく関わっていたことは、前述したように、「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)の第7章、曽根勇二氏の「秀吉による伏見・大坂体制の構築」の中で、三成連署の書状があることによっても明らかですが。

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