石田三成の実像1012 安部龍太郎氏の小説「等伯」における三成の描き方2 利休切腹と朝鮮出兵強行?
安部龍太郎氏の小説「等伯」」(日本経済新聞出版社)では、大徳寺の春屋宗園が三成の師であり、大徳寺三玄院を三成たちが創建したことには触れられており、宗園は三成には大徳寺に手を出させないと言っています。しかし、本当に三成が利休切腹事件を企んだとするなら、佐賀郁郎氏や白川亨氏が指摘されたように、大徳寺や宗園と三成の関係がその後悪くなったはずなのに、三成は母の葬儀を大徳寺三玄院で行っていますし、佐和山に宗園を招いて開基として瑞岳寺を創建していますし、三成が関ヶ原の戦いの後処刑された時、春屋宗園が遺骸を引き取って三玄院に丁重に葬っています。
小説「等伯」では、天正19年(1591)2月25日、利休の木像を一条戻り橋で磔にかけたことについて、「石田三成らが利休断罪への世論作りをねらって扇情的な手段を用いた」ものであり、「三成ら官僚派は、秀吉のもとに権力を集中しようと躍起になって」おり、「それに反対する分権派の諸大名を、利休を生け贄にすることで黙らせようとした」と記されています。
また利休は「キリシタン大名にも影響力を持って」おり、三成は「朝鮮出兵を強行するためにキリシタン大名を身方に取り込む必要に迫られて」、「利休を処刑した」と書かれています。
中央集権派と地方分権派ということに関しては、小和田哲男氏の「豊臣秀次」(PHP新書)の中では、秀次事件の背景には、中央集権派と地方分権(連合政権)派の対立があり、中央集権派の巻き返しを図ったのがこの事件だという見解が示されています。
しかし、秀次事件については、大西泰正氏の「『大老』宇喜多秀家しその家臣団」(岩田書院)で、「『家康ら外様の有力大名は他の政権中枢メンバーに対する指導的地位を制度上において獲得した』との跡部信氏の評価をうけて」、「この事件は豊臣政権に動揺と変革をもたらし」、「秀吉死後を見越して、幼い秀頼を戴いて機能する政権組織への転化を図るべく、有力大名の政権参加の端緒を開いた出来事であった」と指摘されています。
利休切腹事件の背景にも、中央集権派と地方分権派の対立があったという捉え方は、妥当なものと云えるのでしょうか。
朝鮮出兵に関して三成が積極的だったということも事実ではありません。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「朝鮮・文禄の役」の章で、「三成は、戦いの始まる前に、博多の商人・嶋井宗室と図って戦いを止めることを秀吉に進言した記録が享保年間の著述集『博多記』に残っている」と記されています。
三成が朝鮮出兵に積極的でなかったことは、奉行として渡海してその現状をつぶさに見て、漢城会議で慎重論を唱えたことでもわかりますし、「このままでは日本人は一人もいなくなってしまう」などと報告している三成たち三奉行連署状でもわかります。もともと戦争推進の立場だったら、こういう書状は間違っても書かないはずです。戦争の実態を知った三成は、一刻も早く講和を整えようと尽力しています。
小説「等伯」では、天正19年(1591)2月25日、利休の木像を一条戻り橋で磔にかけたことについて、「石田三成らが利休断罪への世論作りをねらって扇情的な手段を用いた」ものであり、「三成ら官僚派は、秀吉のもとに権力を集中しようと躍起になって」おり、「それに反対する分権派の諸大名を、利休を生け贄にすることで黙らせようとした」と記されています。
また利休は「キリシタン大名にも影響力を持って」おり、三成は「朝鮮出兵を強行するためにキリシタン大名を身方に取り込む必要に迫られて」、「利休を処刑した」と書かれています。
中央集権派と地方分権派ということに関しては、小和田哲男氏の「豊臣秀次」(PHP新書)の中では、秀次事件の背景には、中央集権派と地方分権(連合政権)派の対立があり、中央集権派の巻き返しを図ったのがこの事件だという見解が示されています。
しかし、秀次事件については、大西泰正氏の「『大老』宇喜多秀家しその家臣団」(岩田書院)で、「『家康ら外様の有力大名は他の政権中枢メンバーに対する指導的地位を制度上において獲得した』との跡部信氏の評価をうけて」、「この事件は豊臣政権に動揺と変革をもたらし」、「秀吉死後を見越して、幼い秀頼を戴いて機能する政権組織への転化を図るべく、有力大名の政権参加の端緒を開いた出来事であった」と指摘されています。
利休切腹事件の背景にも、中央集権派と地方分権派の対立があったという捉え方は、妥当なものと云えるのでしょうか。
朝鮮出兵に関して三成が積極的だったということも事実ではありません。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「朝鮮・文禄の役」の章で、「三成は、戦いの始まる前に、博多の商人・嶋井宗室と図って戦いを止めることを秀吉に進言した記録が享保年間の著述集『博多記』に残っている」と記されています。
三成が朝鮮出兵に積極的でなかったことは、奉行として渡海してその現状をつぶさに見て、漢城会議で慎重論を唱えたことでもわかりますし、「このままでは日本人は一人もいなくなってしまう」などと報告している三成たち三奉行連署状でもわかります。もともと戦争推進の立場だったら、こういう書状は間違っても書かないはずです。戦争の実態を知った三成は、一刻も早く講和を整えようと尽力しています。
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