石田三成の実像1023 甲賀流忍術屋敷のかくし梯子・望月家の活躍・「歴史魂」の伏見城籠城戦の記述

 
画像
 写真は甲賀流忍術屋敷のかくし梯子を撮ったものです。当時は梯子は上に引き上げられていました。今は中二階へ上がることができるように固定されていますが、かなり急な階段です。中二階は天井が低くなっており、敵が二階に侵入してきても、刀などは抜けないようになっており、二階で敵を捕まえることもできたという係の人の説明がありました。
  甲賀流忍術屋敷の小冊子には、この屋敷の居住者であった望月家の活躍として、「同族24家が一致団結し、甲賀忍者の実力を天下に示した長享元年(1487)の『鈎(まがり)の陣』をはじめ、戦乱の世に大いに活躍し」たこと、「伝説の甲賀忍者・猿飛佐助は、この望月家の忍者だったという説もある」こと、「また望月家の祖、望月三郎兼家は甲賀三郎ともいわれ、伊賀の敢国神社に祀られてい」ることが記されています。
 「歴史魂 Vol.11」(アスキー・メディアワークス)の中に、「忍者を世に知らしめる 将軍を破った『鈎の陣」』と題する」文章が掲載されており、将軍「足利義尚(よしひさ)が御所を構えた鈎陣屋跡に建つ永正寺」の写真も載っています。甲賀忍者がこの戦いで使ったのが「甲賀流忍法の『亀六(きろく)の法』という秘術であったともいわれる」こと、「義尚は25歳の若さで陣中に没した」こと、その死の原因は「思うようにいかない苛立ちと不摂生」だったが、「一説には忍者の手による暗殺だったともいわれる」ことなどが記されています。 
 「歴史魂」の中で「真田十勇士」も取り上げられていますが、「猿飛佐助」について「甲賀忍者」と記されている(立川文庫で大人気になったことにも触れられています)ものの、そのモデルとなった「上月(こうずけ)佐助は伊賀十一人忍衆のひとり」ということも書かれています(武田忍者の出浦盛清《いでうらもりきよ》がモデルという説があることも記されています)。
 「歴史魂」では、敢国神社が服部一族ゆかりの神社であることが記されており、神社の写真も載っています。
 また「歴史魂」には、「甲賀忍者が戦った伏見城籠城戦」と題する文章も載っていますが、甲賀衆に内応者が出て、それが伏見城落城につながったことには触れられていません。すなわち、「家康方として甲賀衆百余人が参戦し」、三成方の「長束正家は妻子を捕らえて降伏を促す」が、「忠義にあつい甲賀衆はこれを拒否(妻子は皆殺しに)」し、「最期は鳥居元忠率いる1800人の兵とともに討ち死にした」と。この描き方には、明らかに事実誤認があります。「関ヶ原の戦い後にこの功績を讃えられた甲賀衆百余人の子孫が、「『甲賀百人組』として家康より知行と江戸城を守る名誉が与えられた」ともありますが、「佐和山落城記」の作者の子孫である山田喜雄氏からいただいたお手紙には、家光の時に江戸表に出て「甲賀百人組」の組織に入っていると書かれていました(拙ブログ2012年12月23日付記事で紹介しました)し、「甲賀流忍術屋敷」のホームページの中の「甲賀忍者の歴史」で、「甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)」と記されています。
 

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