石田三成の実像1119 山田喜雄氏からのお手紙・山田隼人は深井から大坂夏の陣に出陣

 「佐和山落城記」の作者である山田喜庵の子孫である山田喜雄氏から、お手紙を頂戴しました。これは当方から、山田氏に「佐和山落城記」に関して質問させていただいたそのご返事であり、早々と丁重なるお手紙をいただいたことに、恐縮もし感謝も致しました。私が質問したのは、拙ブログ7月28日付記事でも触れたこととも重なりますが、二つです。
 一つは白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、「旅の途中に親しくなった、ある医師に宇吉郎(後の喜庵)に将来を託し、山田隼人親子は永遠に別れた」ため、「その後の山田隼人の消息は、あくまでも喜庵の想像によるもの」と記されている、その記述に関してです。「佐和山落城記」にはそういうことは書かれていないので、山田家に言い伝わる話などに、白川氏が記しておられるようなことがあるのかどうかという質問をしたのですが、山田家にそういう伝承はなく、白川氏のその記述に歴史的根拠はないとの山田氏のご返事でした。 
 もう一つの質問は、「佐和山落城記」に山田隼人は息子の「宇吉郎に医術を習わせ、北総深井の里に住す」と記されており、この記述から隼人も一時期、深井に住んでいたということは考えられないのかという疑問です。これに対して、山田氏は隼人・宇吉郎共に慶長15年に関東に下ったと解する方が自然であると書いておられ、私の疑問に思っていたことは間違いではなかったと思いました。
 山田氏のお手紙では、「父隼人は子・宇吉郎と別れ、夏の陣に馳せ参じたものと考えて居ります。倅・宇吉郎は長年浪々の身なれば、弓馬の道に疎く、大坂には行かずと記されています。佐和山落城時、父上野之助の別離の場面、父は隼人にいつか再起の時もあるであろう、その時その恥辱を雪ぐべしと隼人をさとし、脱出させます。隼人が関東より夏の陣に馳参じたのもこの佐和山落城時の脱出場面の話と一致します。隼人が夏の陣に馳せるのは深井よりと考えるのが自然です」と記されています。
 私自身、この山田氏のお手紙で、三成の長女が嫁いだ山田隼人正という人物と、「佐和山落城記」の筆者である山田喜庵の父である山田隼人は全くの別人であるとの山田喜雄氏の見解が確かめられたような気がしました。
 これも拙ブログで触れたことですが、三成の娘婿である山田隼人正について、白川氏の「石田三成とその一族」には、「元和2年(1616)、忠輝が改易にされた後、山田隼人正は浪人し、その妻との所縁(辰姫の姉との関係で)によって、津軽家から150石の合力米を支給され、山田草山と号して江戸の市井(早稲田)に住み、明暦元年(1655)5月17日、80歳の長寿を保ち江戸で没している」と記されています。
 もし二人が同一人物だったとすれば、山田隼人正が深井に住んでいた宇吉郎に連絡を取らなかったとは考えにくく、父の消息は宇吉郎に伝わったはずです。これをもってしても、二人は別人であるとの確信を持ちました。
 

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