石田三成の実像1179 地震加藤の話に対する西山氏の否定説の根拠・「磯田道史の備える歴史学」の記述

 19日付の拙ブログ記事で、西山昭仁氏の「伏見城を襲った歴史に残る大地震」(『週刊 新発見!日本の歴史 04 豊臣政権と朝鮮出兵の真相』【朝日新聞出版】)所収)の中で、伏見大地震の際、加藤清正が多数の武士を引き連れて登城したという話は、「謀叛を疑われるような行動であ」り、「史実として疑わし」いと指摘されていることを紹介しました。その根拠として挙げられているのは、「前田利家がわずかの供侍のみで登城し、徳川家康が夜が明けてから登城していること」です。
 家康の登城については、朝日新聞8月31日付の土曜版に掲載された「磯田道史の備える歴史学」に次のような記述がありました。「払暁、家康が秀吉の見舞いに向かうと、大手門前に石田三成以下の五奉行が勢ぞろい。城に入ろうとする家康に『見舞いの衆はここで追い返せとのご命令です。お供の衆は大勢無用』と、つっけんどん。結局、家康に同行を許されたお供は『侍衆三人程、挟箱持・草履取ばかり』」と。
 これは徳川幕府が作った家康史料集の「朝野旧聞裒藁(ほうこう)」に記載されているとのことですが、五奉行五大老制が確立したのは秀吉晩年のことですから、この記述に疑問は残りますし、家康と三成の対立がこの時からすでにあったような描かれ方であり、気にはなります。
 寒川旭氏の「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)地震の際の清正の行動について、「前田利家の晩年の回想録『国祖遺言』」の記述が取り上げられています。すなわち、「清正が家来を引き連れてやって来て、路地に彼らを残し、石垣の崩れた所から一人で城内に駆け込んだ。清正が参りましたと言うと、秀吉は機嫌が良く、朝鮮で手柄をたてたこともあってお許しがでた。さらに、この出来事について利家が、人には時節(チャンス)があるものだと述懐している」と。
 ここには三成たち奉行は登場していません。利家の述懐であり、清正は一人で登城したと述べられていますから、実際、清正の登城はあったのかもしれないという気はします。このあたりは今後の検討課題でしょう。
 「磯田道史の備える歴史学」では、この時の秀吉の対応が、家康と利家とでは違ったことも述べられています。すなわち、秀吉は「『大納言様は(利家)お一人は、何の構いもなく、お城へ入れ』、抱っこしていた愛児秀頼を渡している(『利家夜話』)」と。磯田道史氏は秀吉は「家康を恐れた」のに対して、「前田利家は信用していた」と指摘しておられます。
 「利家夜話」の記述は、寒川旭氏の「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)でも記されています。すなわち、「利家は5、6人の小姓に命じて、『上様はご無事に外に出られましたか、大納言様が心配なさっています』と呼びかけるように命じた。すると、秀吉から『無事に外に出た。大納言も無事か』という返事があった。その日、利家が一人で城へ出かけると、秀吉は機嫌が良く、抱いていた秀頼を利家に渡した」と。
 
   

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック