石田三成の実像1197 三成の讒言による清正の蟄居及び「地震加藤」の話はフィクション

 17日にNHK第一で放送された「DJ日本史」で、地震加藤の話が取り上げられていました。しかも三成の讒言によって加藤清正は朝鮮半島から日本に戻されて謹慎させられたと、はっきり「讒言」という言葉が使われていました。伏見大地震の際、清正が真っ先に伏見城に駆け付けて、それに気をよくした秀吉によって清正の謹慎が解かれたということも述べられていました。
 この番組の最後に聴取者のメールも紹介されていましたが、次のようなものでした。「加藤清正は朝鮮の役で手柄を立てながらも勝手に豊臣の姓を使ったことで秀吉の怒りに触れて蟄居の身、それでも真っ先に被災した伏見城に駆け付けて自ら秀吉を警固しつつ、若い侍に棒を持たせて出動させるなど行き届いた迅速な対応で秀吉を感服させてカムバック」などと。
 この地震加藤の話は後世に創られたものであり、この点については、拙ブログでも取り上げてきました。しかし、ラジオで今なおこのような捉え方がされ、聴いている者もそれを史実だと受け止める人が少なくないのではないかと思われますし、こういう通説は根強いものがあると改めて感じました。
 まず清正が日本に呼び戻されたのは三成の讒言によるものではなく、別の理由があったということが、中井俊一郎氏のブログの中で記されています。すなわち、中野等氏による講演会「加藤清正と文禄慶長の役」の報告がされている中に、次のような記述があります。「ただ講和交渉の邪魔をする清正を対立派が召喚した、という話はフィクションであるようです。講和交渉に立ち会うために帰国したんですね」と。 
 また時期的なことから、三成の讒言がありえないことを指摘されているのは、白川亨氏の「『石田三成姦臣論』を探る」(『悲劇の智将 石田三成』【宝島社】所収)です。「石田三成は文禄2年(1593)9月には既に帰国しており、朝鮮には不在で糾弾できるはずはない」こと。「加藤清正が朝鮮から帰国を命じられたのは慶長元年(1596)であり」、三成は「諸国を検地で奔走し、太閤の側近に侍することが極めて少なくなっている」こと。
 もっとも、三成が行った検地のうち、文禄3年の島津領検地、佐竹領検地は家臣に行かせて三成自身は上方にいたことが中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編「織豊期主要人物居所集成」【思文閣出版】)の中で指摘されています。
 加藤地震の話について、西山昭仁氏の「伏見城を襲った歴史に残る大地震」(『新発見!週刊日本の歴史 04 戦国時代4 豊臣政権と朝鮮出兵の真相』所収)の中で、「城内が混乱している最中に、主君の居城へ家臣が大人数の武士を従えて夜間に登城することは、非常時の行動としては考えにくい」「伏見地震における『地震加藤』は史実として疑わしく、そのまま鵜呑みにはできない」などと指摘されています。、

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