大阪探訪39 毎日放送「ごぶごぶ」の大阪歴史散歩2 大阪城の石垣に関心を示す淳さん・秀頼のすごさ
写真は大阪城の石垣を4月18日に撮ったものです。「大坂の陣400年」の幟が立ち並んでいます。この日はあべるハルカス美術館の展示「東大寺」を鑑賞後、大阪城天守閣の展示を見に行き、豊国神社も訪れ、この後、造幣局の桜の通り抜けも見に行ったのですが、大阪城の桜自体はかなり散っていました。
一方、毎日放送の番組「ごぶごぶ」の「大阪歴史散歩」で浜田さんと田村淳さんが、豊国神社を訪れた時には、大阪城の桜は満開状態でしたから、私が訪ねた時より1週間ぐらい前にロケされたものでしょうか。淳さんは石垣の方ばかり見て、たぶん穴太衆が作ったものだという説明を加えていました。
「ごぶごぶ」で二人は、大阪城三光神社の次に、玉造稲荷神社の豊臣秀頼像を訪ね、さらに同境内にある上方漫才の父と呼ばれている漫才作家の秋田實氏の記念碑である「秋田實笑魂碑」(そこも紹介されていたのは、お笑い好きの私には嬉しいことでした。さすがに浜田さんも秋田氏には会ったことがないということでしたが)を見た後、喫茶店のカレーを食べてから、豊国神社を訪れていました。
玉造稲荷神社で、浜田さんは秀頼の名前は知っていても何をした人かはわからないと言ったのに対して、淳さんは結局、何もできなかった人だとと答えていました。
淳さんは秀頼についての情報を番組スタッフから得ていましたが、その中で秀頼は身長が197センチ、体重が161キロの巨漢であったと、江戸時代に書かれた「明良洪範」に記載されていることを知って、病弱なイメージしか持っていたなかったので意外だったという感想を述べていました。
淳さんはまた秀頼のすごさについて、家康に助けてくださいと頼めば命を助けてもらったはずなのに、それをせずに自害を選んだことに豊臣家の最後の生きざまを感じると言っていました。もっとも、浜田さんに「あんたなら本当に自害出来るのか」と突っ込まれた時は、「家康に一回頭を下げて、徳川の配下に入り、再起をはかることも考えます」という現実的な答えもし、浜田さんに「いやらしい」と言われていました。しかし、自分の身に置き換えた場合、死にたくないという点で、二人の意見は一致しており、それだから二人共、秀頼の偉さを改めて評価していました。
もっとも、家康が秀頼の助命を考えていたという点になると、大坂夏の陣まではそうだったかもしれませんが、最後は滅ぼすことを考えていたのではないかという思いを持ちます。
渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)には、「大坂の陣における一連の過程は、豊臣家を滅亡させるための謀略に満ちたもの」とする「『家康謀略史観』なるものは成り立たない」、「むしろ家康は秀頼に最大の配慮を示しながらも、結果的にやむをえず討伐せねばならなかったのである」と指摘されています。
一方、毎日放送の番組「ごぶごぶ」の「大阪歴史散歩」で浜田さんと田村淳さんが、豊国神社を訪れた時には、大阪城の桜は満開状態でしたから、私が訪ねた時より1週間ぐらい前にロケされたものでしょうか。淳さんは石垣の方ばかり見て、たぶん穴太衆が作ったものだという説明を加えていました。
「ごぶごぶ」で二人は、大阪城三光神社の次に、玉造稲荷神社の豊臣秀頼像を訪ね、さらに同境内にある上方漫才の父と呼ばれている漫才作家の秋田實氏の記念碑である「秋田實笑魂碑」(そこも紹介されていたのは、お笑い好きの私には嬉しいことでした。さすがに浜田さんも秋田氏には会ったことがないということでしたが)を見た後、喫茶店のカレーを食べてから、豊国神社を訪れていました。
玉造稲荷神社で、浜田さんは秀頼の名前は知っていても何をした人かはわからないと言ったのに対して、淳さんは結局、何もできなかった人だとと答えていました。
淳さんは秀頼についての情報を番組スタッフから得ていましたが、その中で秀頼は身長が197センチ、体重が161キロの巨漢であったと、江戸時代に書かれた「明良洪範」に記載されていることを知って、病弱なイメージしか持っていたなかったので意外だったという感想を述べていました。
淳さんはまた秀頼のすごさについて、家康に助けてくださいと頼めば命を助けてもらったはずなのに、それをせずに自害を選んだことに豊臣家の最後の生きざまを感じると言っていました。もっとも、浜田さんに「あんたなら本当に自害出来るのか」と突っ込まれた時は、「家康に一回頭を下げて、徳川の配下に入り、再起をはかることも考えます」という現実的な答えもし、浜田さんに「いやらしい」と言われていました。しかし、自分の身に置き換えた場合、死にたくないという点で、二人の意見は一致しており、それだから二人共、秀頼の偉さを改めて評価していました。
もっとも、家康が秀頼の助命を考えていたという点になると、大坂夏の陣まではそうだったかもしれませんが、最後は滅ぼすことを考えていたのではないかという思いを持ちます。
渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)には、「大坂の陣における一連の過程は、豊臣家を滅亡させるための謀略に満ちたもの」とする「『家康謀略史観』なるものは成り立たない」、「むしろ家康は秀頼に最大の配慮を示しながらも、結果的にやむをえず討伐せねばならなかったのである」と指摘されています。
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