京都探訪155 長楽寺2 本堂の厨子 頼山陽の墓 石田三成の実像1241 「日本外史」における三成

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 写真は長楽寺の本堂を撮ったものです。本尊は秘仏であり、厨子の中に安置されています。この厨子について、長楽寺の由緒書には、「徳川二代将軍秀忠と正室お江の娘、東福門院和子ご寄進のお厨子。龍神守護のご本尊に因んで龍の絵と彫刻が多くみられる」と記されています。またご本尊の開帳については、「歴代天皇ご即位のときのみ」とも記されています。
 長楽寺の由緒書によれば、創建されたのは 延暦24年(805)であり、桓武天皇の勅命によって最澄が創建しました。
 「当初(平安時代)は天台宗の別院でしたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今に至る」と記されています。
 収蔵庫内には、一遍上人尊像、七体の遊行上人像などが安置されており、ガラス越しに間近に拝することができました。
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 写真は長楽寺の山腹にある頼山陽の墓を撮ったものです。隣に安政の大獄で刑死した頼三樹三郎の墓も建っています。また近辺には水戸藩士の墓もあります。
 頼山陽は「日本外史」を書き表したことで有名ですが、江戸時代の学者だけあって、三成を佞臣として捉えていて、その見方が現在につながっており、三成の描き方という点では問題の多い書です。利休切腹事件、秀次切腹事件などの陰謀をめぐらしたのは三成だったこと、野望を満たすために汚い手段を使ったこと、淀殿と通じていたことなど。これらの点については、オンライン三成会のホームページ「石田三成のページ」の中の、代表幹事の中井俊一郎氏による「三成の真実」の「石田三成名誉回復論」で言及されています。
 頼山陽が「日本外史」を完成させたのは、京都の三本木の屋敷(広島藩から京都に出奔)においてでしたが、天保3年53歳で亡くなりました。もっとも、「日本外史」が幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたという点では、大いに評価すべき書ではあります。

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