大河ドラマ探訪228 「軍師官兵衛」27 信長の左大臣推任と正親町天皇の譲位問題

 大河ドラマ「軍師官兵衛」で、信長が朝廷からの左大臣に任官するという申し出に対して、正親町天皇が譲位するという条件を出し、任官の話を持ってきた吉田兼和が天皇をないがしろにするものと怒っていましたし、仲介した明智光秀も信長に対して「なにゆえそのようなことを」と言っていました。
 まるで天皇は譲位を考えていないのに、信長が強引にそのことを言い出したというような描き方であり、また朝廷が光秀を頼りにしているという言葉を兼和が出していました。
 この先、本能寺の変がどのように描かれるのかわかりませんが、信長を倒す光秀の影には朝廷がいたというようなことになるのかもしれません。
 谷口克広氏の「検証 本能寺の変」(吉川弘文館)の中で、数々の「関与・黒幕説の再検証」がされていますが、「朝廷関与(黒幕)説の再検証」もされており、その論点の一つとして、「正親町天皇は譲位を望んでいたのか、それとも信長が無理に退位させようとしていたのか」という問題点が挙げられています。
 正親町天皇の譲位問題に関しては、「将軍足利義昭を追放した5ヵ月後の天正元年(1573)12月、信長は正親町天皇に譲位を申し入れた。それに対して天皇は、『朝家(ちょうか)再興いたり候』と喜んでその申し入れを受け入れた(『孝親公記』『正親町天皇宸筆御消息案』)」ものの、「この天正元年の申し入れの時は、年が押し迫っているという理由で実現しなかった」と記されています。大河ドラマで描かれていた左大臣推任の話は、天正9年のことであり、それより8年が経過しています。
 谷口氏の同書では、朝廷と信長が対立関係にあったとする見解と融和関係にあったとする見解を唱えている研究者の名を挙げ、その見解が要約されていますが、融和関係の見解のうち、「桐野氏は、朝廷と信長との交渉を一次史料によって表記した上で、上洛以来の14年間、ずっと両者の関係は良好であったと論じている」と記されています。
 桐野作人氏の「織田信長」(新人物往来社)の中で、「信長は朝廷の左大臣推任に対して、正親町天皇の譲位と誠仁親王の即位を切り出し、それを実現したら、左大臣を請けると回答したのである。内々の勅使となった上﨟局と長橋局は上首尾だったと喜んだが、信長はいつ譲位・即位を執り行うか明言しておらず、左大臣任官を婉曲的に断わるというのが本音だった」と記されています。勅使が信長の返事を喜んだというのが、大河ドラマの描き方と正反対ですが、桐野氏のこの表現の典拠となっているのは、「御湯殿上日記」天正9年(1581)3月9日条です。

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