大阪探訪66 大坂城の外郭めぐり6 真田丸についての千田嘉博氏の新見解2 北側の谷幅は200メートル

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 写真は真田山公園を10月23日に北側から南を向いて撮ったものです。「歴史街道」12月号の「『真田丸』の地形を歩く」の「推測される真田丸の最大範囲」の中に、真田山公園のこのあたりも含まれています。
 一方、訓原重保氏の「豊臣期大坂城の外郭を歩く」(「歴史読本」11月号所収)では、真田山公園やその北に位置する三光神社(真田幸村銅像や真田の抜け穴もその境内にあります)は大坂冬の陣の際、徳川方の前田家が陣を置いたところだと記され、これが今までの通説であり、「歴史街道」12月号を読むまで、私もそう思っていました。
 三光神社は、真田丸ではなく前田利家が陣を置いたところだという根拠について、訓原氏の同書には、
「三光神社のある場所は、宰相山と呼ばれている。宰相とは、加賀藩主・前田利長を指す。冬の陣の折、前田家がここに陣を置いたことに由来する地名である」と記されています。
 11月30日付の拙ブログ記事でも触れたように、真田丸の範囲が果たして実際どこまでだったのか、三光神社のあるところなども真田丸に含まれるのか、改めて検討し直す必要性があると感じました。
「歴史街道」12月号所収の千田嘉博氏の「『守り』でなく『攻め』の砦!通説を覆す真田丸の実像とその狙い」の中で、大阪市博物館協会の報告書「大阪上町台地の総合的研究」の「地形復元図」が取り上げられています。それによると、「真田丸の北側の谷幅は200メートルに及び」、「谷の深さは10メートル」あり、「当時の火縄銃の有効射程を超える距離であり、惣構内部からの援護は期待でき」ず、真田丸は「孤立無援の『死地』」であったと指摘されています。
 真田丸の北側の谷は、今の「空堀通りから長堀通りの一帯すべてが含まれていたことになる」と、「歴史街道」の中の「真田丸の地形を歩く」に記されています。
 真田丸の北側にこれほどの谷幅があったことも、私自身、知りませんでした。
 千田氏の同書には、「大坂城南東隅は天然の要害で」、「通常であれば、徳川勢はここから攻めようと考えなかった」だろう、「信繁はこの地に真田丸を築き、あえて敵勢の格好の標的となった」などとあり、「信繁という男がいかに合理的であり、見事なまでの理詰めで真田丸を築き上げ、徳川の大軍を迎え撃ったことが分か」ると指摘されています。
 
 

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