大阪探訪84大坂夏の陣400年16 大坂城跡発掘調査6 福田千鶴氏「豊臣秀頼」2 秀頼の最初の挑戦状
写真は大坂城跡の発掘調査で出土した国産の陶磁器類を4月18日の現地説明会の際に撮ったものです。大坂夏の陣で豊臣期大坂城が落城した後、徳川期大坂城を築城する際の盛土の中から出土したものです。丹波焼、備前焼、唐津焼、美濃焼などさまざまな陶器が出土しています。
公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡の発掘調査」には、「徳川大坂城の本格的な築城が元和6(1620)年からであることから、堀削はこの時期に推測できます。また、埋土中からの出土遺物に伊万里焼が見られないことから、下限は、1630年前後と考えられます」と記されています。
さて、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)の中では、秀頼が凡庸だったという従来の見方が、徳川史観によるものであることが明らかにされており、いまだに徳川史観による見方が根強いものであるかが改めてうかがえる気がしました。三成が陰謀家、奸臣であったとする捉え方、秀吉夫人の北政所(おね、ねね)が家康寄りだっという見方もそうですし、そういう誤った徳川史観によって、小説やドラマが描かれることが後を絶ちません。作家や脚本家が勉強不足で、最新の研究成果に目を通していないことも大きいのではないでしょうか。
福田氏の同書では、家康と秀頼の二条城での会見の後に出した秀頼書状への検討から、秀頼が家康に送った最初の挑戦状だったと分析されています。この書状の「内容は、家康から贈られた若鷹三連(雄一・雌二)を愛玩する旨を告げたもの」であり、「表向きは披露状という厚礼の形式をとりながらも、秀頼自らの行為には敬意を表し、家康の行為には敬意を表さないという書札礼である」「家康の目には、秀頼からの挑戦状と映っただろう。そして、これこそが家康に豊臣家の完全滅亡を決意させた瞬間だったのではないだろうか」と指摘されています。
この書状に込められた秀頼の思いについて、「本来ならば大坂城への名代派遣や家康の進物に対する礼を述べるところだが、そのことには一切触れずに次回お会いしたときにこちらの御礼を述べましょうと、やり返したのである」と記されています。
二条城の会見の後、家康が大坂城へ名代派遣と進物の贈呈をしましたが、秀頼はそのことに対する礼をせず、家康に大坂城に挨拶に来るように暗に求めたものが、この書状ではなかったかという見解です。
家康が、成人した秀頼を見て、このままでは徳川家の脅威になると判断して豊臣家滅亡を決意させたということがよく言われますが、福田氏の同書では、秀頼の挑戦的な書状が、家康に屈辱感を与え、大坂の陣のきっかけになったと指摘されており、大いに興味を持ちました。
公益財団法人大阪府文化財センター発行の小冊子「大坂城跡の発掘調査」には、「徳川大坂城の本格的な築城が元和6(1620)年からであることから、堀削はこの時期に推測できます。また、埋土中からの出土遺物に伊万里焼が見られないことから、下限は、1630年前後と考えられます」と記されています。
さて、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)の中では、秀頼が凡庸だったという従来の見方が、徳川史観によるものであることが明らかにされており、いまだに徳川史観による見方が根強いものであるかが改めてうかがえる気がしました。三成が陰謀家、奸臣であったとする捉え方、秀吉夫人の北政所(おね、ねね)が家康寄りだっという見方もそうですし、そういう誤った徳川史観によって、小説やドラマが描かれることが後を絶ちません。作家や脚本家が勉強不足で、最新の研究成果に目を通していないことも大きいのではないでしょうか。
福田氏の同書では、家康と秀頼の二条城での会見の後に出した秀頼書状への検討から、秀頼が家康に送った最初の挑戦状だったと分析されています。この書状の「内容は、家康から贈られた若鷹三連(雄一・雌二)を愛玩する旨を告げたもの」であり、「表向きは披露状という厚礼の形式をとりながらも、秀頼自らの行為には敬意を表し、家康の行為には敬意を表さないという書札礼である」「家康の目には、秀頼からの挑戦状と映っただろう。そして、これこそが家康に豊臣家の完全滅亡を決意させた瞬間だったのではないだろうか」と指摘されています。
この書状に込められた秀頼の思いについて、「本来ならば大坂城への名代派遣や家康の進物に対する礼を述べるところだが、そのことには一切触れずに次回お会いしたときにこちらの御礼を述べましょうと、やり返したのである」と記されています。
二条城の会見の後、家康が大坂城へ名代派遣と進物の贈呈をしましたが、秀頼はそのことに対する礼をせず、家康に大坂城に挨拶に来るように暗に求めたものが、この書状ではなかったかという見解です。
家康が、成人した秀頼を見て、このままでは徳川家の脅威になると判断して豊臣家滅亡を決意させたということがよく言われますが、福田氏の同書では、秀頼の挑戦的な書状が、家康に屈辱感を与え、大坂の陣のきっかけになったと指摘されており、大いに興味を持ちました。
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