関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大河ドラマ探訪333 「花燃ゆ」24 伊藤博文別邸・品川焼打ち事件の前の久坂たちによる暗殺計画

<<   作成日時 : 2015/05/24 12:15   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
 写真は萩の伊藤博文別邸の玄関を3月19日に撮ったものです。松陰神社の南にあり、松陰神社の境内を一通回った後、伊藤博文別邸を見学しました。玄関の横に「花燃ゆ」「文と萩物語」などの幟が多く建っていました。別邸のすぐ隣に伊藤博文旧邸があります。別邸は拝観料100円で中を見学することができましたが、伊藤博文関係の資料が多く展示されていました。
 別邸については、「伊藤博文別邸」のパンフレットに、「明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村に建てたもので」、「当地へは当時の面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しました」と記されています。
 さて、大河ドラマ「花燃ゆ」第20回の最後に、品川に建築中のイギリス公使館の焼打ちに向かう高杉晋作・伊藤博文・井上聞多などの御楯組に、それまで参加を渋っていた久坂玄瑞も加わるという展開になっていました。この点について、大河ドラマでは描かれていませんでしたが、品川焼打ち事件の前に、久坂たちがもっと過激なことを計画していたことが、河合敦氏の「吉田松陰と久坂玄瑞」(幻冬舎新書)に記されています。
 すなわち、「玄瑞は、高杉晋作や井上聞多、品川弥二郎らと横浜の外国公使館を襲撃して公使を殺そうと計画していたのである。ただ、この計画をうっかり土佐の武市半平太に漏らしたところ、武市は『それは無謀である』と諌止してきた。玄瑞がそれを拒否すると、半平太は容堂に通報し、驚いた容堂が長州藩に連絡、世子・定広の知るところとなったのである。
 定広は自ら玄瑞らが集まっている神奈川へ出向き、暗殺計画をとどめた。これにより、計画は実行されず、玄瑞らは桜田藩邸で謹慎となった」などと。
 ここからは玄瑞が過激な攘夷運動の先頭に立っていたことがうかがえます。しかし、大河ドラマでは玄瑞は攘夷決行などという計画には反対の立場を取り、外国人を切らねばならないという晋作とは意見が対立していたという描き方になっていました。対立があった方がドラマ的な展開になりやすいというので、こういう扱いになっているのでしょうが、史実とは異なる描き方です。
 「伊藤博文別邸」のパンフレットに、「伊藤博文 略年譜」も掲載されていますが、文久2年(1862)の欄(博文22歳)に「高杉晋作ら12人と品川御殿山イギリス公使館焼き打ちに参加」と記されています。
 第20回の「花燃ゆ紀行」では、この件に関して博文が後に「自分で攘夷決行の端を啓(ひら)かうとして」事件を起こした、「その時は生命(いのち)がけの大仕事」だったと語ったという「伊藤公直話」の記述が紹介されていました。
  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大河ドラマ探訪333 「花燃ゆ」24 伊藤博文別邸・品川焼打ち事件の前の久坂たちによる暗殺計画 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる