自作短歌の周辺28 生まれ育った長屋を題材にした短歌・外の共同水道・路地のにおいと近所付き合い

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 写真は私が生まれ育った長屋付近を5月5日に撮ったものです(幸村慰霊祭の後、一心寺、四天王寺などを回った時です)。写真に向かって右側にその長屋がありました。

 明治より残る長屋に育ちつつ路地のにほひに親しみ覚ゆ
 冬の朝ことに辛かりき屋外の共同水道に顔洗ひつつ

 上の短歌二首は、その長屋で暮らしていた子供の頃のことを詠んだものです。
 最初の歌にあるように、明治時代に作られた長屋であり、子供の頃は土の地面でした。いかにも昭和の雰囲気満ちた路地といった感じであり、下町独特のにおいが漂っていましたが、それが自分にはもっとも落ち着ける場所でした。
 家の中に水道が付いたのは小学校高学年くらいの時だったでしょうか。それまでは、外の共同水道に出て、水を使わねばなりませんでした。冬の朝外で顔を洗う辛さは、今でもよく覚えています。むろん、トイレは汲み取り式でしたし、風呂もなく、お風呂屋さん(銭湯とは言いませんでした)に通っていました。
 この長屋は阪神・淡路大震災の時に大きく揺れ、このままでは危ないと診断され、取り壊されました。両親はもう一軒近くに家を借りていたので、そちらの方に移りましたが、それから10年程して、その家も新しいマンションを建てるために取り潰しになり、城東区の賃貸アパートに引っ越しせざるをえなくなりました。妹一家が城東区に住んでいたためですが、両親にしたら、50年余り暮らした天王寺区の地を離れることに断腸の思いがしたことでしょう。
 下町だけに、近所付き合いもよく、特に母は顔の広い人ですから、知人がたくさんいました。それらの人々と別れなければならなかったのですから、さぞやショックだったに違いありません。もっとも、引っ越してからも、よく天王寺に来て知人と交流していましたが。
 この長屋は6軒続きでしたが、子供の頃はどの家にも上がったことがありますし、家で遊んだり、、テレビを見せてもらったりしていました(小学1、2年の頃までわが家にテレビがありませんでしたので)し、時には食事をよばれたり外に食べに連れて行ってもらったりしたこともありました。
 ここのあたりは上綿屋町と呼ばれ、この町名に愛着を覚えていましたが、町名表示変更で四天王寺町になってしまいました。由緒ある名前が亡くなるのは寂しい気がしてなりません。
 上の写真の向かって左側は私の母校である市立大江小学校の塀です。小学校は建て替わりましたから、雰囲気が当時と変わっていますが、当時は校舎がすぐそばに立っていました。私が喘息で学校を休んだ時など、友達が小学校の窓から呼びかけ、私も家の入口からそれに応じたものです。塀のそばには土を植え、木々を育てていましたし、共同水道も塀のそばにありました。

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