大阪探訪103 夏の陣34 「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼2 寺社の改修は威信を示すため

 
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写真は大阪城本丸広場に建っている豊臣期大坂城の復元図のパネルを4月18日に撮ったものです。右側には公開予定の豊臣時代の石垣公開のための「太閤 なにわの夢募金」の依頼とその趣旨が述べられており、復元図にその公開予定の石垣の位置も記されています。
 さて、 「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」では、秀頼が凡庸な人物ではなく、秀吉の後継者としての資質を備えた優れた人物であることを明らかにしていましたが、秀頼が「帝鑑図説」の発行に加えて、各地の、100に及ぶ寺社の改修に取り組んだことが挙げられていました。この改修の意味は、天下人としての役割を果たし、人々に力を示したと説明されていました。
 これは従来、家康が豊臣家に金銀を使わせるためだったと解釈されてきました。たとえば、森田恭二氏の「悲劇のヒーロー 豊臣秀頼」(和泉書院)には、「徳川家康は、淀殿に『豊太閤菩提』のためと称し、大々的に神社仏閣の修造を進めた」結果、「豊臣秀頼による修造として莫大な豊臣家の財宝がつぎこまれたのである」と記されています。
 しかし、この番組では、寺社の修造は豊臣家の威信を示すためであったという新たな見解が示されており、この点について、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)には、「まさに豊臣家の威光を後世に伝える一大事業であった」と記されています。また福田氏の同書では、「秀頼の諸社寺再興は、明国に対する日本国の優越を示す論拠とされていた」という野村玄氏の見解も紹介されています。
 さらに福田氏の同書では、秀頼による北野社の造営を取りあげながら、「表向きは秀頼を施主としながらも、実際には茶々の意思が重要な決定権を握っており、それは豊臣家摂関家の第一夫人北政所として茶々より優位であった高台院ですら自由にできない性質を帯びるようになっていたことがわかる」と指摘されています。
 「歴史秘話」では、3年前に発見された、秀頼が出雲大社の遷宮を命じたことを示す慶長14年(1609)の史料が紹介されていましたが、この史料の発見は新聞にも掲載されました。
番組では、家康が秀頼に対する危機感を深め、天皇の退位・即位の儀に合わせて秀頼を二条城に呼び出しそうとした時、淀殿は激怒するものの、秀頼がそれをとどめて、自分にまかせてくれと言い会見に赴いたこと、その後、秀頼が出した家康へのお礼の書状には、家康の行為には敬意を払う欠字が用いらていないのに対して、自分の行為には欠字を用いており、これは家康に対する挑戦状だとする福田千鶴氏の見解が取り上げられていました。
 家康への挑戦状だとする福田氏の見解は、「豊臣秀頼」にも記されており、拙ブログ記事でも以前紹介しました。淀殿がこれより6年前の秀忠の将軍宣下の際、秀頼の上洛を促されたのに激怒したという話はありますが、天皇の退位・即位の際にもそうだったというのはおかしいのではないでしょうか。この点について、福田氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)には、「(織田)有楽の説得が功を奏したのか、この時は茶々が上洛に反対したというような話は伝わらない」と記されています。
 

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