大阪探訪104 夏の陣400年35 「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼3 籠城戦決定に関して

 
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 写真は大阪城天守閣を本丸広場の日本庭園を4月18日に撮ったものです。今回新たに発見された大坂城の堀についての現地説明会があった後に、大阪城に立ち寄った時に撮りました。ここからの大阪城の眺めも趣きがあります。
 「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」では、前述したように秀頼の再評価がされていましたが、二条城会見の後、家康が秀頼を評した言葉も紹介されていました。すなわち、「秀頼は賢い人だ。人に仕えその命に従うような器の人物ではない」という言葉であり、出典は「明良洪範」です。
 番組では、秀頼からの挑戦状とも受け取れる書状(福田千鶴氏の見解に基づくもの)が送られてきた家康は、危機感を深め、豊臣家を討伐する口実を探し始め、そこで目をつけられたのが方広寺で新調された鐘の銘文であり、「国家安康」の語に家康の名を分断し、徳川家に対する呪いが込められていると言いがかりをつけ、全国の大名に出兵を命じたと説明されていました。
 二条城で家康と秀頼が会見した後、加藤清正、池田輝政、浅野幸長ら豊臣恩顧の大名が次々と亡くなったことも、家康にとって豊臣つぶしにいい機会が訪れたと思ったはずです。この点について、渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)には、「こうした有力外様大名の死は、いっそう家康の立場を有利にした。時間の経過さえも、家康を有利な方向に導いた」、そして「ついに家康は秀頼に牙を剥くのである。それが大坂の陣のはじまりであった」などと記されています。
 番組では、大坂冬の陣の際は、真田幸村が城を出て野外で堂々と戦うべきだと主張したのに対して、強固な城の守りを生かした籠城戦を主張する者も多くいたが、秀頼は自ら秀吉が残した大坂城の防御力にかけ籠城戦に賭けたと説明されていました。
 この点に関して、渡邊氏の同書には、幸村などの積極論と大野治長らの籠城戦主張の対立は「名将言行録」に書かれていることであり、「このような人物の描き方は、人物の描き方は、後世における何らかの意図が影響している」と記され、「籠城戦というのは、ある意味で唯一の選択肢であったといわざるをえないのである。むろん確執はあったかもしれないが、籠城作戦はそれなりの計算に基づく判断と考えてよいであろう」と指摘されています。
 籠城戦決定について、実際、番組で描かれていたような経緯であったのかについては、今後検討する必要があるように感じました。
  

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