石田三成の実像1419 直江兼続が春日大社に奉納した釣灯篭1 関ヶ原の戦いの後に寄進

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写真は春日大社にある直江兼続が奉納した釣灯篭(写真の中央のの灯篭)を昨日撮ったものです。第六十次式年造替記念の国宝御本殿の特別公開が昨日まで行われており、最終日に見に行ってきました。20年に一度だけ公開されるので、是非とも見たいと思っていましたし、春日大社にはもう一つ目的がありました。景雲殿で「天下人の崇敬と春日大社」展が開かれており、宇喜多秀家が奉納した灯篭や豊臣秀吉朱印状などが展示されています。この展示は7月14日まで行われています。
 ちなみに、この日はこの後、滝坂道まで足を延ばし、石畳道を登り、夕日観音、朝日観音、首切地蔵、地獄谷石窟仏などを見て戻り(時間があれば峠の茶屋を越えて円城寺まで行こうと思ったのですが、さらに一時間以上歩かねばならず夕方になってしまうので今回は断念しました)、奈良国立博物館の庭園や茶室などの特別公開を見ました。最後は雨が降って来ましたが、当初の目的は一応果たしましたし、随分歩き回りました。行きも帰りもJRで、後はすべて徒歩でした。
 さて、直続の灯篭は、御本殿の外側に釣り下げられており、普通なら見ることができないところにあります。灯篭の銘文には次のように記されています。
 「(春日)社 (奉)寄進
  御立願成就如意慮也
  慶長五年庚子極月吉日
  越後国直江山城守息女敬白」
  文中の「極月」は12月のことですから、慶長5年12月という時期は、関ヶ原の戦いが終わり、石田三成・小西行長。安国寺恵瓊が処刑された(10月1日)後でした。「越後国」というのは事実ではなく、この時上杉家は会津が領国であり、兼続は米沢の領主でした。しかし、上杉家は謙信以来越後の国主でしたから、兼続はあくまでそこに戻りたい、そこが自分の本来いるべき場所だという気持ちが強くこの銘文には表れているのかもしれません。
 三成が関ヶ原で戦っている時、兼続たち上杉軍は東北の長谷堂城などで戦っていました。しかし、兼続は関ヶ原の戦いで三成らが敗れたという報を聞いて、会津に戻ります。その後の兼続の動きについて、「直江兼続関連年表」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』所収・花ヶ前盛明氏監修)には「10月20日 兼続、若松で軍事会議を開き、和戦を協議す。千坂景親から上方の情勢を聞き、和平の議を決定。 11月3日 兼続、福島に致着。本庄繁長に上洛の命を伝達」とあります。
 兼続が家康に謝罪のため、上洛したのは翌年の7月のことですから、灯篭を奉納した時には会津にいました。奉納者は「兼続息女」になっています。

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